内田雅也が行く 猛虎の地<17>西宮「敷島劇場」

[ 2018年12月20日 09:00 ]

「タンク」が心を休めた映画館

1925(大正14)年ごろ、のぼりが立ち、にぎわう敷島劇場=西宮市情報公開課提供=
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 プロ野球は沢村が投げ、景浦が打って始まった――と言われる。伝説の洲崎の決戦で人気を呼んだ一騎打ちである。

 創設初年度1936(昭和11)年12月9日、洲崎球場での年度優勝決定戦の第1戦。タイガースの主砲、景浦将は巨人・沢村栄治のドロップ(縦のカーブ)を左翼場外に運ぶ3ランを放った。

 詩人・西条八十は『洲崎野球場風景』の中でうたっている。<力と熱の象徴か、その無造作に戦場を駆けるタンクにさも似たり>。景浦の豪快さを戦車にたとえた。

 投手、打者兼任の二刀流だった。投げては36年秋は最高勝率6勝無敗、最優秀防御率0・79。打っては37年春打点王、秋首位打者となった。

 大食漢の逸話も多い。甲子園庭球場でのすき焼き会で若林忠志と食べ比べ、1貫(3・75キロ)を平らげた。同郷の横綱・前田山の弟子・錦谷と東京・新橋の焼き鳥店で競争し、なんと130本食べてやめた。怪力で270〜280匁(もんめ=1013〜1050グラム)のバットを軽々振った。

 豪快なイメージばかりがあるが、実際は控えめで、先輩をたて、後輩をかわいがる気のやさしい男だったと伝わる。

 松山商の後輩、武智修の話が大道文(本名・田村大五)の『プロ野球豪傑伝<上>』(ベースボール・マガジン社)にある。43年に入団すると「おお、武智の坊やか、大きゅうなったな」と迎えてくれた。

 当時、景浦は結婚しており、妻・久美と武智、同じ新人の中原宏を連れて西宮へ映画を見に行った。「阪妻、嵐寛寿郎、片岡千恵蔵……ほとんど見たんじゃないかな。西宮の敷島劇場、畳敷きの2階はいつもガラガラだった。その畳の上に景浦さんはゴロッと横になってチャンバラを見るんです。楽しそうだったな」

 敷島劇場は1922(大正11)年、西宮市役所、阪神・西宮駅の近くにできた映画館。立派な建物で、人通りでにぎわう様子の写真が西宮市に残っている。今で言う札場筋と阪神電車が交差する南東角にあたる。

 景浦は39年、兵役に就き、42年暮れに満期除隊。この43年は4年ぶりに復帰したシーズンだった。ブランクがあり、主に代打で出場、それでも10打席連続安打を放った。

 だが、深まる戦時色にどこか世をはかなんだ様子がうかがえる。「もうおやじの後を継いで製材所をやる」といった言葉が残る。寝転んで映画を見た敷島劇場は心休まる場所だったのだろう。

 44年再び召集。45年5月20日、フィリピン・カラングランで戦死と公報に残る。マラリアで高熱のなか、山中へ食料調達に出向き、帰らなかった。=敬称略=(スポニチ編集委員)

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