内田雅也が行く 猛虎の地(16)神戸港

[ 2018年12月19日 10:00 ]

ハワイ航路に咲いた「酒仙」の恋

1933年、ハワイ行きの秩父丸で出会ったころの西村幸生と東末子さん=ジョイス津野田幸子さん提供=
Photo By 提供写真

 酒にまつわる逸話が多く、主戦ならぬ「酒仙」投手と呼ばれた西村幸生の一方の側面を書く。ロマンチックな恋と、家族への愛の物語だ。

 1936(昭和11)年6月9日、西村が主将を務める関大は2度目のハワイ遠征へ、神戸港から秩父丸に乗り込んだ。出発を前に西村は三重・宇治山田の実家で両親に「3年前にハワイで知り合った女性がいる。まだ一人でいるなら結婚を申し込みたい」と打ち明け、承諾を得ていた。

 女性は33年6月、関大の第1回ハワイ遠征で同じ神戸―ホノルルを結ぶ秩父丸に乗り合わせた東(ひがし)末子。ハワイで生まれ育ち、両親の故郷・熊本を訪ねるため初めて来日し、帰る途中だった。当時22歳、オアフ島の電話局に勤めていた。

 西村は当時すでに23歳。宇治山田中(現宇治山田高)から愛知電鉄(現名鉄)の鳴海クラブでプレーした後、31年に関大予科に入学していた。

 当時、7〜8日間の航程。日本語が苦手な末子に西村は得意の英語で話しかけた。今回の取材でハワイに暮らす三女・洋子が持つ、当時の写真を提供してもらった。「ロマンスの始まり」と題し、笑顔の2人がいた。

 それから3年。船中の西村に英語で電報が届いた。「ウエルカム・ユキオ スエコ」とあった。西村の喜びようが目に見えるようだ。末子は現地の新聞で関大来訪を知り打電したのだった。

 宿泊先の山城ホテルには花束を手にした末子がいた。西村は末子の家を訪ね、結婚を申し込んだ。驚いた両親も承諾した。現地での宴席の席上、婚約が発表された。

 翌37年、西村はタイガースに入団する。公式戦中の4月19日、宇治山田の料亭で結婚式を挙げ、尼崎・武庫之荘の新居で暮らした。西村は1年目から最多勝、最優秀防御率の2冠となり、初の日本一に貢献。38年も2年連続日本一に導いた。だが右肩痛もあり39年限りで退団。満州(現中国東北部)新京(現長春)に渡り、実業団・満州電電でプレーした。

 44年2月、赤紙(召集令状)が届いた。3人の女の子がおり、末子は4人目を身ごもっていた。出征の日、「すぐに帰ってくる。ビールをたくさん集めておけ」と笑って出かけた。長女のジョイス津野田幸子(70)は当時6歳。自宅2階の窓から「父ちゃん、バイバイ」と叫んだ。西村は一度も振り返らず、右手拳を突き上げ、角を曲がっていった。「それが父を見た最後でした」

 戦後、一家は帰国し、熊本に身を寄せた。47年、戦死公報が届いた。45年4月3日、フィリピン・バタンガスで戦死と記されていた。「母は初めて声をあげて泣きました」(幸子)。48年、ハワイに渡り、末子は4人の女の子を育てあげた。

 2016年1月29日、天皇皇后両陛下がフィリピンで戦没者慰霊碑に花を手向けた。幸子は遺族として列席した。美智子さまがユニホーム姿の父の写真を手にとり「お父様のお名前は」と話しかけてくれた。「野球を続けたかったでしょうね」

 かつて秩父丸が出入りした神戸港に立った。カップルが行き交う平和がある。戦時を懸命に生きた西村と末子の幸せな日を思った。=敬称略=

(編集委員)

続きを表示

この記事のフォト

2018年12月19日のニュース