内田雅也が行く 猛虎の地<15>西宮神社

[ 2018年12月18日 10:00 ]

優勝パレードに始まった参拝

西宮神社の本殿
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 阪神が2リーグ制となって初優勝を果たした1962(昭和37)年の監督・藤本定義はなかなか信心深い人物だったようだ。当時、東京遠征中の宿舎だった本郷の「清水旅館」の主人の妻だった清水昌子から聞いた話を覚えている。

 「藤本監督は神頼みばかりしていました。後楽園球場でナイターの時など、朝昼に誘われて成田山・新勝寺や浅草寺に行くのに付き合ったことが何度もありました」

 ヘッド格の打撃コーチだった青田昇は試合中、ピンチになると藤本がベンチからいなくなると著書『ジャジャ馬一代』(ザ・マサダ)で明かしている。球場内の喫茶店でコーヒーを飲んでいた。

 「困る」と言う青田に藤本は「いや、これでええのや」と言った。「ワシがおると、どうしても投手を代えたくなる。代えるべきでないとわかっていても代えたくなる。ワシはおらん方がええ」

 青田は<藤本さんから学んだ最大のものは、この“忍”の野球だった>と記している。確かに、シーズンを見通した忍耐があったのだろう。

 推測だが、ベンチから消えた藤本は神頼みをしていたのではないか。野球批評家・草野進が「祈る」ことが「監督の資質を決定する」と論じている。藤本は紛れもなく「祈れる」監督だった。

 さて、62年の優勝決定は10月3日、午後4時14分。甲子園球場で胴上げされた藤本は涙を流した。記者会見の後、球場近くの合宿所「虎風荘」で祝勝会があった。

 この後、藤本が向かった先は京都・八瀬の九頭竜大社だった。優勝の願掛けをしており、お礼参りに出向いたのだった。神戸・本山の自宅に帰ったのは4日未明だったと、当時のスポニチ本紙にあった。

 5日には優勝パレードがあった。甲子園球場を出発し、尼崎市役所―西宮市役所―芦屋市役所―兵庫県庁―神戸市役所と回り、虎風荘に帰るルート。このパレードの合間に西宮神社に立ち寄ったそうだ。神社関係者から聞いたことがある。

 当時の記事にもなく、参拝した理由は今では分からない。これも藤本の意向だったのではないかと思えてくる。

 翌年からこの西宮神社参拝は恒例行事となり、今にいたっている。球団創設初年度1936(昭和11)年から続く広田神社参拝とともに開幕前、チームで訪れ、祈る。

 えべっさんと親しまれ、門から本殿までを競走する十日戎の開門神事福男選びは新春の風物詩。そんな西宮神社と猛虎の関係に思いをはせた。=敬称略=(編集委員)

 《「甲子園」の由来》甲子園球場という名は完成した1924(大正13)年が十干十二支の最初の組み合わせ、甲子(きのえね)で縁起が良いことからつけられた。当時、阪神電鉄の最高責任者で球場建設を決断した三崎省三専務が同年元日、西宮神社へ初詣に出向くと、参道や境内に「大正十三年甲子之歳」と書かれた幕や看板が目に留まった。三崎氏の四男・悦治氏が書いた小説『甲子の歳』にある。実話と思えるストーリーで、三崎専務は1月7日の重役会で仮称「枝川運動場」の名称を「甲子園」と提案したとある。西宮神社は美名「甲子園」誕生にも関わっていた。

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