内田雅也が行く 猛虎の地<14>ホテル竹園芦屋(旧竹園旅館)

[ 2018年12月17日 08:00 ]

矢野の運命を変えた会議室

現在のホテル竹園芦屋
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 JR芦屋駅前のホテル竹園芦屋は、この秋、阪神監督に就いた矢野燿大(50)の運命を変えた場所である。

 1997年のシーズン中、阪神球団常務だった野崎勝義は中日監督・星野仙一と会うため、5階の会議室に出向いた。中日が阪神戦(甲子園)での定宿にしていた。

 内情を記した野崎の著書『ダメ虎を変えた!』(朝日新聞出版)によると時期は<初秋>。日程を見返すと9月以降、中日が甲子園で試合を行ったのは9月13、14日だけ。移動日の12日だったと思われる。

 当時の野崎は営業担当で編成担当者に代わっての面会。星野とは初対面だった。中日との間で進めていたトレードを断り、謝る役回りだった。

 阪神側は星野の明大先輩にあたるヘッドコーチ・一枝修平が窓口となり話がまとまっていた。だが、複数トレードの交換要員に桧山進次郎(49=現評論家)の名前があり、電鉄本社から「待った」がかかった。「売り出し中の桧山を出すのか」「もったいない」というわけである。

 星野は<半分にやにや、半分あきれて>と野崎の書にある。「現場でできていた話も流れてしまうのか。そんな姿勢だから阪神は弱いんだ」。一刀両断した。

 ただし、交渉は途絶えたわけではなく、その後も交換要員を変えて行われ、成立した。遅かった阪神のシーズン終了翌日、10月13日に通告、14日に正式発表となった。

 阪神から関川浩一、久慈照嘉、中日から大豊泰昭、矢野輝弘(09年オフから燿大)の2対2交換だった。「阪神・矢野」が誕生したわけである。

 野崎は<桧山を放出していたら、阪神はだれをもらったのか。捕手の中村武志であった>と明かしている。当時の正捕手で矢野は2番手だった。

 矢野は阪神1年目の98年、正捕手の座をつかんだ。後にスポニチ本紙で<自分の野球人生を大きく変えてくれたのがトレードだった>と書いている。<星野さんから言葉は一切なし。「絶対に星野さんを見返す」と強く思うことができた>と反骨心に燃えていた。

 トレードから4年後の2001年オフ、星野は阪神監督に就いたのも運命的だ。野崎は球団社長として迎えた。再会した矢野は「星野監督に認められたい」と奮起した。03年の優勝にはMVP級の活躍で貢献した。

 矢野は右肘手術明けで出場30試合に終わり、大リーグ・マリナーズから城島健司が移籍した09年オフ、球団から大幅な減俸を提示された。移籍を真剣に考えた。「気がつけば連絡していた」と相談したのは阪神オーナー付シニアディレクター(SD)の星野だった。

 会談場所はまたもホテル竹園芦屋だった。星野は矢野の手を取った。「03年はよう頑張ってくれたな。おまえがいたから、俺はあんなに素晴らしい思いができた。感謝しとるぞ」「ベンチで過ごすのは辛いし、大変だが、いい勉強になる。阪神に残らないかん」

 この言葉で阪神残留に思いとどまった。後にコーチ、2軍監督、そして1軍監督への道が開けたのだった。=敬称略=(編集委員)

 《10月は予約を取らずに空けている 猛虎の優勝を願って―》ホテル竹園芦屋は毎年、阪神の優勝を見込んで10月は予約を取らずに空けているという。

 1985(昭和60)年に優勝した際、西武との日本シリーズを甲子園で戦った第3―5戦、10月28日からの3泊4日、チームは竹園旅館(当時)に宿泊した。岡田彰布選手会長が「短いシリーズだし、全員でまとまろう。ファンの混乱から身を守るためにも一緒の方がいい」と提案。吉田義男監督以下、外国人選手を除く全選手、スタッフ52人が合宿を張った。

 2003年優勝時は日本シリーズ前、10月9日から15日まで6泊7日で合宿を行い、星野仙一監督は「心が一つになった」と語っていた。

 この前例を受け、竹園の福本社長は「次に阪神さんが優勝した際、いつ指示されても対応できるように、日本シリーズ前から全館貸し切りで空けています。可能性がなくなるまで毎年ギリギリまで待ちます」と話した。

 《歴史は戦後、小さな精肉店から》ホテル竹園芦屋の歴史は終戦翌年の1946(昭和21)年10月、芦屋駅前商店街に構えた小さな精肉店に始まる。中国大陸から復員した福本貞次氏が戦後食糧難の時代に「おいしい牛肉を提供したい」と創業した。

 53年10月、隣に竹園旅館を開業。56年、料理の評判を聞いた巨人監督・水原茂氏が来館して納得。甲子園遠征時の宿舎を明石から変更し、今に至っている。水原氏も戦中は中国大陸に出征。シベリア抑留も経験した。貞次氏と同じ戦地だったことで意気投合した。

 57年には巨人にならう形で中日も宿泊。高校野球春夏の甲子園出場校の宿舎にも採用され、大阪万博もあった70年のピーク時は高校6、プロ野球6チームが宿泊した。別館、第三別館、新館と拡張し、駅前再開発の86年に現名称となった。

 星野仙一氏との交流は中日現役時代から。03年優勝時は自費で選手、スタッフの家族を招待して宴会を開いた。歴史を知る宴会予約課の縄田治正さん(75)は「独り暮らしだった阪神時代は応接室代わりに使っていただいた」と話す。「星野スペシャル」と呼ばれる特別メニュー(甘辛肉野菜炒め)もあった。

 阪神・金本は食事に訪れ、広島移籍後の新井は甲子園に選手たちにコロッケを差し入れた。

 3代目社長の福本吉宗さん(49)は「祖父の代から、おいしい肉とくつろげる部屋というポリシーは脈々と生きています」と話し、今オフも改装工事を行っている。

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