内田雅也が行く 猛虎の地<9>東京・築地「秀花」

[ 2018年12月11日 09:00 ]

「世紀のトレード」が動き出した料亭

トレード成立発表で握手を交わす(左から)山内一弘、阪神・野田誠三オーナー、大毎・永田雅一オーナー、小山正明(1963年12月26日、大阪・梅田の阪神電鉄本社)
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 東京・築地の料亭「秀花」はいわゆる待合政治の舞台だった。

 戸川猪佐武『小説吉田学校』(学陽書房)に<築地の秀花は、田中にとっては思い出のあるところである>とある。田中土建工業社長だった27歳の田中角栄が1945(昭和20)年11月下旬、進歩党代議士の「寝業師」大麻唯男から呼ばれた。献金の要請で、田中はこれに応じた。翌年、大麻の勧めで衆議院総選挙に郷里の新潟から立候補するきっかけとなった。

 この「秀花」で1963(昭和38)年オフ、ストーブリーグの火ぶたが切られた。「世紀のトレード」と言われた阪神・小山正明―大毎(現ロッテ)・山内一弘交換への商談が始まったのだ。

 12月14日、午後8時すぎから大毎オーナー(大映社長)・永田雅一と阪神球団代表・戸沢一隆、同スカウト・佐川直行が会談を持った。

 既に大型トレードによる体質改善を公言していた永田は「秀花」を出る際、「小山一本に絞った。正式にトレードを申し込んだ」と語った。「2時間の話し合いは“小山くれ、小山くれ”で終始した。誰でも出す用意はある」。交換要員は要望に応じる構えを示した。

 永田はその大言壮語から「永田ラッパ」と呼ばれ、金も出すが口も出す名物オーナーだった。新聞紙上では先に小山の名前が出ていたが、この「秀花」の後、火は一気に燃えさかった。阪神側の要求も山内の名前が取りざたされた。

 紙上で名前が出た小山は幾度か西宮市甲子園三番町の戸沢の自宅を訪ねている。当時の事情を球団80周年記念『阪神タイガース・ヒストリー・トレジャーズ』(ベースボール・マガジン社)で明かしている。小山が「永田さん、永田さんと言いますが、タイガースとしてはどうなんですか? 戸沢さん、そこまで隠さなくてもいいじゃないですか。本音を言ってください。別に構いません」と迫ると「その後すぐにトレードが発表となりましたよ」。

 発表は26日、大阪・梅田の阪神電鉄本社で行われた。阪神オーナー(本社社長)・野田誠三と永田、小山、山内の4人が手を取り合った。

 小山は当時29歳。テスト生で入団した阪神で素質を開花させ、11年間で176勝をあげていた。村山実との両輪で62年に2リーグ制初の優勝に導いていた。山内は31歳。「ミサイル打線」の主軸で同年、史上2人目の250本塁打を達成。2度の本塁打王、4度の打点王に輝いていた。

 空前のスター同士のトレードに永田は「球界のエポック」、野田は「プロ野球の一つの進歩だ」と話した。

 「秀花」はもうない。区名は変わったが昔と同じ築地4丁目。今も残る建物で言えば、東劇から晴海通りを歩き、京橋郵便局を右に入った辺りにあった。今はマンションになっていた。当時の住宅地図を見ると大小多くの店が立ち並んでいた。同じ一角に芥川賞・直木賞選考会場の料亭「新喜楽」があり、新大橋通りを渡った築地場外市場は外国人観光客でにぎわっていた。 =敬称略= (編集委員)

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