内田雅也が行く 猛虎の地<6>羽田空港国際線到着口

[ 2018年12月7日 09:30 ]

見初めたバッキーを出迎え 阪神監督の「密命」果たしたスポニチ本紙記者

1962年7月18日、阪神入団テストを受けるため、羽田空港に降り立ったバッキー。有本義明さん(背中)の出迎えに笑顔を浮かべる(有本さん提供)
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 星降る夜だったと当時のスポニチ本紙にある。1962(昭和37)年6月21日早暁、東京六大学春季リーグ戦で優勝した法政大一行が乗ったパンアメリカン(パンナム)航空機はハワイ・ホノルル空港に向け東京国際空港(羽田)を飛び立った。本紙記者・有本義明も同乗していた。当時珍しかった特派で、自身初の海外渡航だった。

 法大は全日本大学選手権でも優勝。全米王者ミシガン大と争う初の日米大学選手権(72年から今も続く同名大会とは異なる)に派遣されていた。

 有本は密命を帯びていた。阪神が「ハワイにいる外国人投手の力量を確かめ報告してほしい」という。後に64年優勝の立役者となり、通算100勝をあげるジーン・バッキーである。当時24歳。3Aハワイ・アイランダース(消滅)を解雇され、日系人クラブ、ハワイ朝日軍にいた。同軍オーナー、エンゼル・マエハラから紹介された阪神が有本の特派を知り、調査を依頼していた。

 有本と阪神監督・藤本定義は奇縁もあり親交が深かった。有本が芦屋中(現芦屋高)4年だった47年9月12日、神戸・岡本の自宅が漏電から火事になった。近所の飯田家に婿入りしていた当時太陽監督の藤本が真田重蔵、ビクトル・スタルヒンら選手と駆けつけてくれた。火を消し、応接室のピアノや納屋のタマネギを運び出した。投手だった有本を藤本は「君には野球がある。落胆せずにがんばれ」と励ました。

 有本は後に慶大で内野手として活躍し本紙記者となった。藤本との交流は続いていた。

 さて、大会は法大が2勝3敗で敗れ、6月25日に終わった。密命の実行である。ホノルル郊外の原っぱでバッキーが投げ、朝日軍のマサ・シンタニが捕手を務めた。

 87歳となった有本は今も強い印象を忘れない。出国前、阪神スカウト・佐川直行から「投手は前後左右から見る」と助言された通りにして目を凝らした。「真っすぐが変な回転をしていた。ナックルは変化がすごく捕手が捕れなかった。何より日本へ行くという執念が感じられた」。4月に結婚したばかりだった。

 「自分の目だけでは心配」と同行を頼んだ法大監督の田丸仁も「これは相当なもんや」と太鼓判を押した。佐川に国際電話で伝え、日本での再テストが決まった。

 来日は7月18日、羽田着のパンナム機。バッキーは一人で来た。先に帰国していた有本も一人で国際線到着口で迎えた。伊丹行の全日空機に乗り継ぐ間、再会を喜んだ。

 阪神は同日、バッキーのテストを発表した。有本は特ダネを記事にしなかった。信頼されていた藤本の密命を果たしたのである。=敬称略=(編集委員)

 《メッセ 100勝の時はバッキーさん呼ぶ》阪神でバッキー以来の100勝にあと5勝と迫るメッセンジャーは2013年ごろ、夫人がSNSを通じてバッキーとつながり、連絡を取り合っている。バッキーは現在81歳、生まれ故郷の米ルイジアナ州ラファイエットで暮らす。メッセンジャーは偉大な先輩に敬意を払い「100勝目を飾る試合にはバッキーさんを日本に招待したい」と話している。

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