内田雅也が行く 猛虎の地〈4〉宝塚・売布「松方邸」

[ 2018年12月5日 09:00 ]

初優勝を祝った初代会長の屋敷

旭国際が「玉樹」という名の迎賓館で使用していた当時の絵はがき
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 奥に山林が広がり、手前に菰池(こもいけ)がある。阪急電鉄宝塚線・売布(めふ)神社駅北側に広がる光景だ。この地にタイガース初代球団会長(オーナー)、松方正雄の屋敷があった。今はマンションが建つ。

 1922(大正11)年7月に建てられた。茶室・数寄屋建築の第一人者、木津宗一の設計。530平方メートルの木造かわらぶき平屋。洋間もあり、和洋折衷の趣があった。敷地は2万坪(約6万6千平方メートル)に及んだ。

 1937(昭和12)年秋(当時は春秋2期制)、タイガースが初優勝すると、選手全員を屋敷に招き、祝勝会を開いた。初代主将・松木謙治郎が<まずは敷地内の山林で松茸(まつたけ)狩り、そのあと、広々とした庭で盛大なすき焼きの宴>と『阪神タイガース 昭和のあゆみ』に寄せている。

 この建物が今も残る。歴史をたどれば、42年に松方他界の後、機械メーカー・クボタの創業者、久保田権四郎ら人手に渡り、戦後は高級料亭旅館「松楓閣(しょうふうかく)」となった。90年の閉館で取り壊されるのをゴルフ場経営の旭国際開発が「残したい」と移築を申し出た。建物は無償だが解体、運搬、復元に5億円を要した。93年7月、旭国際東条カントリークラブ(兵庫県加東市)の迎賓館「玉樹(たまき)」としてオープンした。だが07年、経営悪化でゴルフ場は譲渡。迎賓館も使われなくなった。当時の絵はがきに豪華なたたずまいがうかがえる。

 現在の東条の森カントリークラブに旧松方邸を訪ねた。副支配人・齋藤雅の案内で中に入った。動物が入り込むという屋敷は荒廃が進むが、洋間や庭など随所にぜいたくな造りがうかがえ、往時に思いをはせた。齋藤は「今でも“松方邸”と呼んでいます」と関係者は由来を承知していた。

 松方は明治の元勲・松方正義の四男。35年の球団創立時、阪神電鉄社長・今西与三郎の筋で招かれた。34年創立の巨人が侯爵・大隈信常を会長に据えており、対抗する狙いもあったとされる。

 関西財界の重鎮。就任時、日本放送協会関西支部(JOBK=現NHK大阪放送局)理事長や浪速銀行、大阪ガスなど一切の要職から退き、タイガース一筋に生きた。

 留学先の米ペンシルベニア大では俊足の二塁手でならし、野球好きだった。ほぼ全試合、夫人同伴で観戦。試合後の通路で「ご苦労さん」と笑顔で選手を出迎えた。職業野球と呼ばれ社会的地位の低かった当時、松木は『タイガースの生いたち』(恒文社)で<肩身の狭い時代だけに、会長の熱意と励ましは大きな心の支えだった>と記す。

 今は廃屋の松方邸の玄関に立った。ある夜、松方は酔って池に落ちたそうだ。巨漢は庭番では支えきれず、以後は腕力のある松木は介添え役となった。酔えば『お江戸日本橋』が出たという。上機嫌に「コチャエ、コチャエ」と歌う光景が目に浮かんできた。行く先の見えなかったプロ野球草創期を支えた大物の情熱を思った。=敬称略= (編集委員)

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