阪神メッセ 挑戦する心でつながり 大やけどから立ち直ろうとする高校球児との交流

[ 2018年11月6日 08:30 ]

ブルペンで投球練習する京都共栄・三木慶太君
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 【内田雅也の広角追球】全身大やけどの重傷を負った大事故から立ち直ろうとする高校球児と、阪神のランディ・メッセンジャー投手(37)に、心の通った交流があった。奮闘を記事で知ったメッセンジャーが激励の言葉や品物を贈り、感激した球児は甲子園球場でお礼の手紙を手渡した。夏から秋にかけ、プロ・アマの垣根を越え、2人は「挑戦」する心でつながっていた。

 高校球児は京都共栄学園(京都・福知山市)1年生で左投手の三木慶太君(16)という。2013年8月15日、小学5年生の時、事故に巻き込まれた。毎年、行っていた地元福知山市の花火大会。家族や親戚と河川敷に座っていると、「シュー」と何かが噴き出す音がして、振り返ると約10メートル先の屋台で「ドーン」と爆発が起きた。悲鳴のなか、必死で逃げた。熱風でTシャツが溶け、腕が焦げていた。事故で3人が死亡、55人が重軽傷を負った。

 体の4割にやけどを負った。集中治療室(ICU)での治療が続いた。母・純子さん(47)は「とにかく命があって良かった」と思ったほどだ。入院は6カ月に及び、皮膚の移植手術は数回受けた。痛みは激しかった。「なんでこんな目に……」と落ち込んだ。

 そんな時、励ましてくれたのが野球の仲間だった。小学1年から入っていた「下六(しもろく)レッズ」のメンバーが投手の三木君に「早く元気に」「また一緒にやろう」と見舞いに来てくれた。看護師や医師がおもちゃのバットやボールで院内で野球大会を開いてくれた。

 退院後、野球チームに復帰したが、利き腕の左腕がやけどの後遺症で汗が出ず、体温管理ができない。可動範囲も狭まっていた。六人部(むとべ)中野球部では一塁を守った。

 高校進学時「野球も勉強もできる」と京都共栄を選んだ。ただ、入部はためらった。4月末になり、思い切って神前俊彦監督(62)に「やけどしていますが、入れますか」と申し出た。監督の返事はもちろんOK。「君が頑張れば、いろんな人に勇気を与えられる。自分が楽しみたければ入っておいで」。1年生最後の部員となった。

 高校では投手に復帰。左腕から大きなカーブなど変化球を操る。夏は外れたベンチ入りをこの秋は勝ち取った。

 「今は目標を持ってやっている。目標? もちろん甲子園です」と前を向く。「自分ががんばることで誰かが勇気を持ってくれるかもしれない。だからがんばれる」

 そんな思いを阪神のエース、メッセンジャーが知った。7月中旬、三木君を取り上げたインターネット上の記事をヴァネッサ夫人が翻訳ソフトで訳して伝えると「ケイタを勇気づけたい」と思い立った。8月、サイン入りユニホームや著書『ランディ・メッセンジャー〜すべてはタイガースのために』(洋泉社)を贈った。著書には自筆で「努力し続けることだ。幸運は努力家に訪れる」とメッセージを添えた。

 突然の贈り物に京都共栄では8月23日、三木君と両親を学校に招き、國田敦校長が贈呈式を開いた。三木君は感激した。「びっくりしました。事故にあったけど、あきらめずにやっていれば、こんないいこともあるんだ」

 阪神ファンだった。保育園のころ、両親が「子どもが好きなことの近くにいたい」と家族で公式ファンクラブに入り、ずっと会員だった。

 三木君はお礼の気持ちを手紙に書いた。球団に思いを伝えると、メッセンジャーから誘われ、10月6日(DeNA戦)の試合前、甲子園のクラブハウスでメッセンジャーと会うことができた。両親、2人の双子の妹、いとこで同じく事故にあった高校球児、兵庫・柏原(かいばら)3年、余田(よでん)捺希(なつき)君(18)も一緒だった。

 三木君は「メッセージは一生忘れることのないものになりました。苦しいことがあっても、あの言葉を思い出してがんばっていきます」と読み上げた。メッセンジャーも感激し「この手紙はトロフィーや賞状などを飾っている場所に飾るようにするよ」と応じた。

 「どんな時も変わらずに同じことをする。これが大事なんだ。自分のがんばりが誰かのためになるなんて、何ともすばらしい」。メッセンジャーの言葉は今も心に響く。

 対面は50分に及んだ。「挑戦」の思いはプロも高校球児も同じだ。野球を通じ、人生を思う交流だった。(スポニチ編集委員)

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