焦土の白球に描いた夢――戦前プロ野球人「最後の1人」古川清蔵さん死去

[ 2018年10月26日 09:00 ]

NHK・BS1スペシャルで取材を受ける古川清蔵さん(提供=ホームルーム)
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 【内田雅也の広角追球】戦前戦後と名古屋軍(現中日)、阪急(現オリックス)で俊足強打の外野手として活躍した古川清蔵さんの訃報は、新聞の片隅にひっそりと載っていた。10月17日午前5時15分、老衰のため宝塚市内で死去。96歳だった。

 1922(大正11)年3月、鹿児島市で生まれた。市立鹿児島商から社会人・八幡製鉄を経て1941(昭和16)年、名古屋軍に入団した。42年は8本、43年は4本で2年連続本塁打王となっている。戦時中、物資が不足し、粗悪品のボールは全く飛ばず、極端な投高打低の時代だった。

 それでも印象的な一発を放っている。42年5月12日の南海(現ソフトバンク)戦では川崎徳次からサヨナラ本塁打。5月24日の大洋(消滅=戦後の大洋とは無関係)戦(後楽園)では2―4の9回裏2死、野口二郎から起死回生の同点2ランを放った。その後両チームともゼロ行進で延長28回、4―4で日没引き分け。この延長28回は今もプロ野球最長イニングとして記録に残る。この試合、服部受弘ら捕手に召集が相次ぎ、古川さんは急造捕手としてホームプレートを守り通した。

 プロ野球OBとしては最高齢だった。10月9日に亡くなった、元巨人内野手で第19代4番を務めた手塚明治(あきはる)さんと同じ96歳。ただ手塚さんのプロ入りは戦後1949(昭和24)年で、戦前のプロ野球を知る選手としては最後の1人だった。

 まさに歴史の生き証人として、古川さんはこの夏、8月11日放送のNHK・BS1スペシャル『戦火を駆け抜けた男たちのプレーボール』に出演している。終戦から3カ月あまり、プロ野球復活を告げる1945(昭和20)年11月23日の東西対抗戦(神宮)を取り上げた番組だった。

 兵庫県宝塚市の老人ホームで暮らす古川さんは車いすに乗っていたが、元気だった。8月15日の終戦を水戸の陸軍航空通信学校で迎え、故郷の鹿児島に戻る途中、東京・青山にあった名古屋軍理事(球団代表)、赤嶺昌志氏の自宅に身を寄せた。ここで赤嶺から驚くべき話を耳にする。

 「この秋、11月ごろに職業野球(プロ野球)の東西対抗をやるぞと。そんなに早く野球ができるんですか?って言うと、できる!と」

 番組ではこの時、96歳の古川さんの目が輝いていたのが分かる。当時の男子は誰もが軍隊に行き、そして死んでいく。そんな運命にあった。

 「生きて野球ができるとは、思ってもいなかったですよ」

 取材・編集を担当した番組ディレクター、制作会社ホームルーム(本社・東京)の馬場晃さんは「あの笑顔が忘れられません」と話した。今春4月にインタビューした際の写真を提供してもらった。戦前プロ野球人「最後の一枚」である。

 東西対抗には、鹿児島・知覧の特攻基地から山口・大島の実家に引き揚げていた鶴岡一人(南海)、故郷の広島・呉で人間魚雷「回天」の解体作業をしていた藤村富美男(阪神)……ら、全国各地から7球団33人の選手が集まっていた。古川さんを最後に全員が鬼籍に入ったことになる。

 前々日に東京・和泉の明大グラウンドで顔を合わせて練習した。「おお、生きとったか」「生きてて良かったなあ」と再会を喜んだ。

 「それでも全くトレーニングも何もしとらんでしょう。いきなりでしたからねえ」

 選手たちの練習不足は当然で投手力も守備力も打撃力も全盛時からは相当衰えていた。

 前日が雨で順延となり迎えた本番。古川さんは東軍の1番・中堅で先発フル出場した。1回裏先頭で左前打しているが、あまり記憶にない。それよりも、5回表、藤村の中堅右への飛球に「足がもつれてひっくり返った」と後逸し、ランニング本塁打にしてしまった。公式記録員・広瀬謙三氏(野球殿堂入り)はスコアシートに「テントウ」と注釈を書き込んでいる。戦後1号本塁打だった。雨上がりで足場が悪かったこともあるだろう。

 試合は両軍合わせて34安打、16四死球、6失策と荒れ、13―9で東軍の勝利。ただ、試合内容は二の次だった。

 「あの試合で、間違いなく野球ができる日が来た、ということは確かになりましたね」

 古川さんは平和を実感していた。赤嶺氏が話していた「野球が復活すると示すことに意義がある」はその通りで、翌46年4月には公式戦が再開された。

 当時、神宮球場は進駐軍が接収し「ステートサイド・パーク」と呼ばれていた。連合国軍総司令部(GHQ)は球場使用許可を出したが、入場料6円の3分の2(4円)を税金として徴収、映像や写真撮影は禁止した。

 古川さんを取材できたことを馬場さんは喜んでいた。訃報に接し、古川さんの笑顔を思い出した馬場さんから「泣きたい」と短くメールがあった。続いて「これで試合終了。いい試合だった――」とあった。

 戦前のプロ野球選手、戦後復活の東西対抗出場選手で最後の1人。古川さんは後世に歴史を伝え、旅立っていった。

     (編集委員)

 ◆内田 雅也(うちた・まさや) 本文で触れたNHK・BS1スペシャル『戦火を駆け抜けた男たちのプレーボール』に出演させてもらった。東西対抗戦のため野球道具を提供したのは日本職業野球連盟関西支局長の小島善平氏だった。長男・昭男さんを取材し記事にした経験から、小島氏の功績を語る役回りだった。1963(昭和38)年2月、和歌山市生まれ。大阪紙面で07年からコラム『内田雅也の追球』を執筆。

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