「農」「秋田」が準優勝した意味〜「野球史家」佐山和夫さんの感慨

[ 2018年8月21日 17:09 ]

<大阪桐蔭・金足農>試合を終えて吉田(1)ら金足農ナインと健闘をたたえ合う根尾(左から2人目)、藤原(右)ら大阪桐蔭ナイン(撮影・北條 貴史)
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 【内田雅也の広角追球〜高校野球100回大会余話】100回大会の決勝戦を迎える21日午前、野球に関する著作も多い、ノンフィクション作家、佐山和夫さん(82)から電話があった。

 「朝から金足農、つまり農業高校の決勝進出という快挙について、いろいろと思いを巡らせていたんだが……」。自身の思いを伝えたいとの気持ちがうかがえた。

 佐山さんは日本高校野球連盟(高野連)顧問、選抜21世紀枠特別選考委員も務めている。

 「農業高校ということでベースボールの原点を思い返した気がします。野球と農業は非常に関係性が深いんですよ」

 自ら世界各地を訪ねて調べ歩き、野球の起源や歴史に詳しい。『野球はなぜ人を夢中にさせるのか 奇妙なゲームのルーツを訪ねて』(河出書房新社)の著書もある。アメリカで言う「野球史家」(ベースボール・ヒストリアン)である。

 「野球の祖先となるゲームはイギリスで生まれています。イギリスは海洋国家です。今の野球のルールにも船乗りの考え方、思想がうかがえます。打者は一塁、二塁、三塁と回ってホームに帰ることを目指します。いくら三塁まで行ってもホームに帰らないと意味がない。これは船が海に出て、港に立ち寄りながら、最後は無事に出発した港に帰って来ることこそ重要なのです」

 この「船乗りの思想」は『野球とクジラ――カートライト・万次郎・ベースボール』(河出書房新社)でも読める。ボールではなく、人が本塁に文字通り“生還”して得点するのも野球の特徴である。

 「このゲームがアメリカに移民とともに渡ってタウンボールからベースボールと発展していくわけですが、新大陸には文字通りの大地があった。ここでゲームに農業の精神が宿ったのです」

 18〜19世紀、アメリカ各地で行われ、アレキサンダー・カートライトがルールを体系化したのは1845年だった。

 「たとえば、野球場は古くはフィールドと呼ばれていました。草原ですよね。スタジアムができる前は皆、フィールドで遊んだわけです。ブルペンも元の意味は“牛の囲い”でしょう。野球には農に関係した言葉がいくらもあります」

 古くは外野のフェンスもなかった。いわば無限に広がる大地が試合会場だった。しかも時間制限がない。

 「今日の試合が今日中に終わる保証もない。時間にも空間にもしばられないというのはまさに農民のものだと言えるでしょう」

 「また、攻める時と守る時に道具を替えるのは野球だけです。バットにグラブ、それにプロテクターやマスク……。これもまた、種まきや刈り入れなどで多くの道具を使う農民の思想ですよ。分業が進んだ商工業などとは違い、農業は農民がすべて自分でやらねばならない。道具がたくさん必要なわけです」

 「大自然を相手にしたスポーツ、それが野球だと言えます。金足農は僕にそのこと、つまりベースボールの原点を思い起こさせてくれたんだ」

 自然を相手に、野球がが本来持つおおらか、牧歌的な魅力を思ったのかもしれない。

 決勝戦。金足農は2―13という大差で大阪桐蔭に敗れた。和歌山県田辺市の自宅でテレビ観戦していた佐山さんは「そんなこと、大した問題じゃありません。彼らはよくやりましたよ。十分にやりました」とたたえた。準優勝を喜んだ。

 秋田勢の準優勝は1915(大正4)年の第1回全国中等学校優勝野球大会(今の全国高校野球選手権大会)の秋田中(現秋田)以来、実に103年ぶりだった。

 当時、決勝で敗れた秋田中の選手たちが「京都軍、万歳!」と連呼し、観衆を感激させた、との逸話を最初に教えてくれたのも佐山さんだった。

 昨年4月に当欄で書いたが、『野球、この美しきもの。――アメリカン・ベースボールと秋田野球』(水曜社)では1998年夏の秋田大会決勝戦を題材に、秋田野球の美しさを伝えている。

 対戦カードは今夏準優勝した金足農と秋田商だった。17―16の激闘で金足農が甲子園出場を勝ち取っている。

 9回裏、1点リードで守る金足農の捕手が秋田商ベンチ前に上がった邪飛を追い、スライディングキャッチを試みた。<このときだった。秋田の夏が特別だったのはこのときだった>。立ち上がった捕手が目の前の秋田商ベンチに向かって、スタンドにも聞こえる大声で叫んだ。「秋商、がんばれ。おまえらも意地を見せろ!」

 佐山さんは<もはや、敵も味方もないのだった。甲子園出場をかけた最後の修羅場で、両校は互いに溶け合っていた>と感じ入っている。

 佐山さんは、秋田野球の源流として1899(明治32)年、秋田県知事に就任した武田千代三郎をあげている。秋田で野球の勝者に与えられる「挑戦杯」(チャレンジ・カップ)を寄贈している。この争奪戦の注意としての言葉の中に注目すべき文句がある。

 「清く勝つことあたわずんば、むしろ清く敗れよ。ふたつながら、これ戦士の名誉たることを忘るるなかれ」

 秋田は古くから、こうしたフェアネスの精神に満ちていた。この夏、金足農もまた、清く敗れ去ったのだった。

 「農業」、そして「秋田」が輝いた準優勝。佐山さんは感慨深く、100回大会の夏を見つめていた。(編集委員)

 ◆内田 雅也(うちた・まさや) 1963(昭和38)年2月、和歌山市生まれ。桐蔭(旧制・和歌山中)から慶大卒。85年4月、入社。アマ野球、近鉄、阪神担当などを経て野球デスク、2001年ニューヨーク支局。2004年から編集委員(現職)。

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