横浜商 古屋文雄元監督 選手へのケア行き届いた日大三 投打に戦力充実

[ 2018年8月16日 09:00 ]

第100回全国高校野球選手権記念大会第11日2回戦   日大三8―4奈良大付 ( 2018年8月15日    甲子園 )

横浜商・古屋元監督
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 【名将かく語りき〜歴史を彩った勝負師たち〜第11日】「Y校」の名を全国にとどろかせたのが、横浜商の古屋文雄元監督(74)だ。同氏は第3試合の日大三―奈良大付戦を通じて、現代の高校野球は監督だけでなく、優秀なスタッフをそろえなければ選手は育成できないと指摘した。1896年創部の名門野球部の低迷期を「対話路線」で立て直した名将は、多感な世代が目立ち始めた今こそ、分業指導から幅広いケアが必要だと訴えた。

 日大三の先発はセンバツで経験があるとはいえ、夏は初マウンドの2年生・井上君だった。いきなり146キロ、2回には150キロも計測した。4回からは左の河村君にスイッチ。エースの中村君を温存しつつ、先を見越してのことだろうが、投手が代わっても戦力は落ちない。その後も確実に追加点を奪って、逃げ切った。

 打線も奈良大付・木村君の140キロ台を苦もなく打ち返していた。左打者の内角低めにコントロールされた球だが攻略した打者を褒めるべきだ。初戦・折尾愛真戦では15安打、16得点と爆発したが、大振りすることなく、良い面が出ていた。試合後のケアが行き届いているのだろう。

 高校野球も複数スタッフで指導する時代になった。多くの夢を抱いた選手を育てるには強力かつ優秀なアシスタントが必要。指導者も多くの神経を使うが、選手も多くのチャンスを生かせられる。

 私が就任当初のスパルタ指導から脱却した原点は4年目の75年5月、春季関東大会直後だった。銚子商の篠塚(元巨人)に打たれ準優勝とはいえ、当時は「次こそ甲子園」と有頂天だった。

 ところが1年生15人が「監督にはついていけません」と1カ月以上ボイコット。それでも教室から練習をのぞいている。「それなら帰ってこい」と諭すと同時に猛練習は熱中症や退部者を生み出すだけと、3つの改革に踏み切った。(1)練習時間を3時間半に短縮(2)初めて休憩時間を取り入れ、飲料水や軽食を摂取(3)他校の練習視察に人員を割く。以降は生徒と対等の立場でコミュニケーションが取れた。練習試合で失敗すると、自然と選手から「監督はそんなこと言ってないぞ」と声が飛ぶ。そこから、ワイワイ野球が始まった。

 27歳から9人の部員を無我夢中で鍛えたけど、正式なコーチ指導など受けたことはない。だから、同期の渡辺元智さん(元横浜高監督)、小倉清一郎さん(元横浜高、横浜商コーチ)、年下の木本芳雄さん(桐蔭学園など3校で監督)にも恥ずかしがることなく聞きまくった。

 私は幸いにも春夏計8度、甲子園に行けたが、全て1人エースで戦ってきた。初出場した79年夏は宮城弘明でベスト4、三浦将明が背番号1だった83年は春夏とも全国準優勝も、それこそ矢尽き刀折れる状態だった。それが今の強豪や名門校は、複数の投手を擁し、誰が先発なのか分からないチームまである。

 私の監督時代も1日に二手に分かれて4試合を行い、入れ替えを行ってきたが、経済的な事情はあるにせよ、複数の指導者は必要だった。同じような実力のある選手にはもっともっとチャンスを与えないといけない。かつての教え子には申し訳ないことをしてしまったと思っている。

 幼少時の野球人口が減り続ける昨今だからこそ、高校球児には多くの目配りが必要なのでは、と痛感した。 (元横浜商監督)

 ▼ワイワイ野球 野球部創部は1896年(明29)。以来、Y校(ワイこう)という愛称で関東における中学、高校野球のけん引役に。チームが走攻守押せ押せムードで相手を自分のペースに持ち込むと、スタンド応援もY高の文字を大声で繰り返し、圧倒する。

 ◆古屋 文雄(ふるや・ふみお)1944年(昭19)5月3日生まれ、神奈川県出身の74歳。71年秋から横浜商の監督に就任。79年夏甲子園初出場でいきなり全国4強。83年は三浦将明を擁して春夏とも全国準優勝。甲子園出場は春3度、夏5度で通算成績は23勝8敗。90年夏甲子園出場を最後に退任。

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