「白球飛び交うところに平和あり」――100回大会の8月15日に思う

[ 2018年8月15日 09:45 ]

甲子園球場外野スタンド場外に建つ野球塔
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 【内田雅也の広角追球〜高校野球100回大会余話】100回大会の8月15日に沖縄代表・興南の試合があるというのも何かの因縁だろうか。

 我喜屋優監督は50年前、1968(昭和43)年の50回大会に興南の主将、4番打者として出場。沖縄勢として初めてベスト4に進出、旋風を巻き起こした。

 終戦の日の正午は西宮市の浜甲子園スポーツセンターで練習中だった。正午になると整列し、黙とうをささげた。当時の本紙に<戦後23年間、父や母が叫び続けている悲願の本土復帰を合わせて祈った>と記事が載っている。

 米国施政下で、本土に渡るにはパスポート(渡航証明書)が必要だった。甲子園入りすると、記者から「授業は英語と日本語、どちらが多いですか?」などと無理解な質問もあった。日本は遠い異国だった。

 この50回大会を記念して、記録映画『青春』が撮られた。市川崑監督が描いた沖縄の高校野球は目に焼き付く。キーンという衝撃音とともに米軍機が上空を飛ぶ。野球部員たちは誰一人として見向きもしない。映画パンフレットには次のようにあった。

 <練習に精魂を込めているからか、それとも日常馴染(なじ)んだ風景だからか。無心にプレーする選手たちを、有刺鉄線の外から熱心に見物するアメリカ兵たち>

 印象的なシーンが数多い『青春』だが、「こんな映像があったのか!?」と驚くのが戦時中、甲子園球場の大鉄傘が崩れ落ちる光景である。

 戦前にあった大鉄傘が金属供出で軍部に提供した歴史は承知していた。取り壊しが始まったのが1943(昭和18)年8月6日。大きな鉄骨や屋根が土煙をあげて倒れるシーンが映っていた。

 当時の球場職員で後に球場長を務めた川口永吉さん(1971年他界)は著書『甲子園とともに』に書いている。<鉄傘が外された時、われわれはその樋(とい)の中で名残を惜しんで寝た。大の男が横たわれるほど大きなものだった>。

 やはり、高校野球は、甲子園球場は……戦争を抜きには語れない。

 興南とともに、8月15日に試合がある龍谷大平安にも戦争に関連した悲話がある。

 前身の平安中が初の全国制覇を達成した1938(昭和13)年夏、エースだった天川清三郎は卒業後、プロ野球・南海軍(現ソフトバンク)に入団し、40年シーズンを最後に召集された。

 44年10月26日、フィリピン・レイテ島で頭部に銃弾を受け戦死した。24歳の若さだった。直前まで、野球や将来の家族について考えていたという。永井良和『ホークスの70年 惜別と再会の球譜』(ソフトバンククリエイティブ)にある。

 「国に帰り、嫁さんもろたら、きっと男の子ができる。そしたら野球塔見せたんねん」

 野球塔は1934(昭和9)年、第20回大会を記念して甲子園球場の北東、今の兵庫県警甲子園署の辺りに建てられた。高さ30メートルもある塔のほか、階段型観覧席もあった。大会前に選手、関係者の茶話会が催されたりもした。

 銅板には歴代優勝校名に選手名も刻まれていた。天川は息子に自分の名を誇らしげに見せ、語る姿を夢描いていたのだろう。

 この野球塔は45年8月の西宮大空襲で崩壊。現在、球場外周南側にある野球塔は2010年に再現して建てられたもの。高さは15メートルとかつての半分。列柱にある銅板には春夏の歴代優勝校の名が刻まれている。途中、空白部分があり、校名ではなく「戦局の深刻化に伴い中止」と刻まれた期間がある。戦争による中断である。

 終戦の1945(昭和20)年8月15日、佐伯達夫氏(後の日本高校野球連盟会長)は奈良公園の茶店で、玉音放送を聴いた。著書『佐伯達夫自伝』(ベースボール・マガジン社)に<終戦の日の決意>が記されている。<そうだ。野球だ。敗戦で混乱しきった世の中を、中等野球(今の高校野球)で立て直すのだ>。

 戦後「白球飛び交うところに平和あり」は高校野球のうたい文句となった。それは、100回であろうが、200回、300回……であろうが、変わらない。

 正午。今年もまた、あのサイレンの音とともに思いを強くする。

     (編集委員)

 ◆内田 雅也(うちた・まさや) 1963(昭和38)年2月、和歌山市生まれ。桐蔭高(旧制和歌山中)―慶大卒。野球記者として「戦争と野球」は生涯追い続けるテーマと自覚する。沖縄戦当時「島守」と呼ばれた県知事、島田叡氏を記念した「島田杯」が贈られる沖縄県新人中央大会は13日に決勝があり、浦添工が初優勝した。

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