明徳義塾・馬淵監督 佐賀商が格上相手に見せた工夫 松井5連続敬遠に通じる

[ 2018年8月8日 08:20 ]

第100回全国高校野球選手権第3日・1回戦   高岡商4―1佐賀商 ( 2018年8月7日    甲子園 )

92年夏の星稜戦で松井秀喜を5打席連続で敬遠した馬淵監督の采配は今なお語り継がれている
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 【名将かく語りき〜歴史を彩った勝負師たち〜第3日】92年夏の2回戦「星稜―明徳義塾」で高校野球史に残る“事件”が起きた。明徳義塾の馬淵史郎監督(62)が指示した松井秀喜の5打席連続敬遠。春夏通算50勝の名将が当時からブレずに追い求めているものが、高岡商VS佐賀商の第1試合にも垣間見えた。それは何か――。

 長打力の差が勝敗を分けた。高岡商は5回の本塁打と7回の2点適時打となった二塁打。一方、佐賀商は0。バスター打法では長打は難しいと見ていた通りだった。バスターは一つの方法だろうが、振り遅れており、もう少し早くトップの形に持っていく必要を感じた。とはいえ、これは打力不足を補うための工夫。器用に変化球を投げた佐賀商の木村君や、高岡商の2番手の大島君がプレートの一塁側を踏んでいたのもそう。右腕は昔、三塁側を踏むのが基本だったが、持ち味を発揮するため、試行錯誤してきた様子がうかがえた。

 工夫こそ、力のない学校が格上に対抗するために必要なことだ。工夫、作戦、時には奇策。やれることを全てやり、一生懸命勝とうとするのが私の目指す教育だ。だから、92年夏に5連続敬遠をした。

 星稜の1回戦の長岡向陵戦(11―0)を甲子園で観戦し、神戸製鋼のグラウンドで行われた星稜の練習にも足を運んだ。当時は顔が知られていなかったから、堂々と見た。松井(秀喜)君は格が違った。うちはエースがケガをしていたこともあり、これは勝負できんわ、と。3点差で勝っていたり、逆に負けていたりしたら、しなかっただろう。でも終始、僅差でリード。全部(敬遠を)するつもりはなかったが、展開的にせざるを得なかった。松井君やうちの選手たちに、その後嫌な思いをさせてしまって悪かったと思っている。でもルール内での勝負。そこに後悔はない。

 物凄いバッシングを受けたのは監督の徳のなさだろう。大会後にこんなことがあった。高知・春野球場での公式戦の試合中、「監督、緊急の電話です」と呼ばれて電話に出たら、「おまえのおやじが交通事故で死んだ」と言われた。これはいたずらだとピンときた。まだ元気だったけれど、「とっくに死んどるわ」と言い返した。その後、やはり気になって実家に電話したけどね。

 松井君の始球式はテレビで見た。力が入っとったね。実は息子(長男・烈、拓大野球部コーチ)が彼のファンで、まだ巨人にいたころ、知人を通じて宛名付きのサインをもらったことがある。「もしかして、息子さん?」と言いながら、ペンを走らせてくれたそうだ。あの試合後も非難めいたことは一切言わなかった。実力も、人柄も立派の一言に尽きる。

 あれがあったから10年後の優勝は感無量だった。ベストゲームは3回戦の常総学院戦。8回に逆転され、完全な負けパターンだった。その裏も2死まで追い詰められながら、2ランで追いつき、森岡良介(現ヤクルトコーチ)が決勝弾。それまでほとんど打てていなかったが、足を上げた瞬間、「これ、打つな」と思った。オーラが出ていた。勝った後、これは最後までいけると思った。

 出られなかったから言うわけではないが、100回大会はあくまでも通過点。いつでも出たいし、勝ちたい。それが甲子園だ。 (明徳義塾監督)

 ◆馬淵 史郎(まぶち・しろう)1955年(昭30)11月28日生まれ、愛媛県出身の62歳。愛媛・三瓶―拓大を経て阿部企業で選手、監督として活躍。コーチを経て90年明徳義塾監督に就任。02年夏に森岡良介を擁し優勝。甲子園通算50勝31敗。

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