夏の全国大会創案の記者は子規と同じ左投げの俳人だった――孫のみた田村木国

[ 2018年8月5日 08:00 ]

わかやまスポーツ伝承館に展示されている田村木国(省三)氏に贈られたブロンズ像と表彰状
Photo By スポニチ

 【内田雅也の広角追球〜高校野球100回大会余話】100回大会を迎えた夏の甲子園大会を創案した当時大阪朝日新聞記者、田村木国(もっこく=本名・省三)は野球を愛した正岡子規と同じく、俳人で左投げの野球選手だった。

 木国の孫、前澤崇さん(70=大阪府豊中市)から聞いた逸話を基に、大会創設の功労者に迫ってみたい。

 全国高校野球選手権大会の前身、全国中等学校優勝野球大会が初めて開かれたのは1915(大正4)年8月。発端は同年6月、会場の豊中グラウンドを所有する箕面有馬電気軌道(現・阪急電鉄)の経営係・吉岡重三郎が、その活用法を大阪朝日新聞に相談したところ、窓口となった社会課(現・社会部)運動係の木国(当時26歳)が人気沸騰中だった中等野球の全国大会を提案した。

 時を同じくして、京都二中(現・鳥羽高)OBで三高(現・京大)にいた小西作太郎、高山義三(後の京大市長)、美津濃運動具店(現・ミズノ)主催の関西大会で世話人だった佐伯達夫(後の日本高校野球連盟会長)……ら、各方面から全国大会創設の提案があった。機は熟していた。

 提案を受けた大阪朝日新聞社長・村山竜平は「即座に決断」とも「決断30分」とも伝わる。

 木国は社命を受け、7月1日付1面に<本社主催 全国優勝野球大会 来る八月中旬豊中に於(おい)て挙行>と社告を書いた。

 「それからが大変だった」と前澤さんは祖父から聞いていた。「参加する出場校を集めるのが大変。何しろ初めての全国大会で“参加しません”とか“考え方が違う”“見せ物みたいな大会には出られない”と断られることも多かったようです。全国各地を直接訪れ、お願いに行ったと言います。家に帰っている暇もなかったのでしょう」

 木国は兵庫、山陰、東海、名古屋、広島、福岡、四国……と各地を訪れ、また通信部の記者を通じて参加を呼びかけた。約40日間、自宅に帰らず、社屋の机の上で眠ったという。後に「この大会を完成せねばという一心から、私は無我夢中で連日を暮らした」と述懐している。前澤さんも「全国大会ですから、何とか参加校を増やそうと努めたそうです」と話す。

 日本一を決める大会のため、各地区の優勝校を集めねばならない。このため既存の大会を予選とみなした地区も多い。東京、東海、関西、山陰、四国、九州だ。だが、たとえば北陸は四高主催大会が全国大会が重なり、出場校を出せなかった。

 こうして参加73校、全国10地区代表がそろって、8月18日、晴れて第1回大会の開幕にこぎつけた。ジャーナリストの情熱が生んだ全国大会だった。

 1917年の第3回大会から会場は鳴尾に移り、第10回大会からは完成した甲子園球場で開かれるようになった。

 前澤さんは木国の娘・文代さんの長男。1948(昭和23)年に生まれた。第1回大会開催の地、豊中で木国とともに過ごした。小学校入学から木国が他界する高校2年まで10年以上、一緒に暮らしていた。「自宅と祖父(木国)の家は自転車で行き来できる距離でした。高校(豊中高)進学の都合もあり、私は祖父の家に預けられた形で、一緒に住んでいました。週末や夏休みだけ自宅に帰るといった生活が何年も続いていました」

 小中学校時代、祖父に連れられ、甲子園球場で高校野球を観た。「よく開会式の日に行きました。柴田(勲=後に巨人)の法政二が開幕日に勝った試合(1960年)はよく覚えています。球場の中へは、いつも迷路みたいな階段や通路を通っていました」。普段は使わないため閉じられていた旧4号門のことだろう。貴賓室に通じている。

 貴賓室の食堂ではサンドウィッチやスイカを食べた。時には抜け出してカチワリを買い、名物のカレーライスを食べた。

 1951(昭和26年)の33回大会開会式で全国大会創設の功労から表彰を受けた。甲子園に行く際にはその功労賞バッジを胸につけていった。入場券代わりになった。球場内ではよく中沢良夫(日本高校野球連盟会長)や野田誠三(阪神電鉄社長、阪神球団オーナー)らと談笑していた。

 木国は1889(明治22)年、和歌山県伊都郡笠田中村(現・かつらぎ町)に生まれた。1歳のころ、大阪に転居し、旧制・北野中(現・北野高)から旧制・三高(現・京大)に進んだ。

 中学時代から俳句に親しんだ。三高を中退し、出版社に務めた後、1910(明治43)年、大阪朝日新聞社に移った。「朝日の方から“ウチに来ないか”と誘われて入社したようです」。

 1917(大正6)年、高浜虚子に師事。22年、『山茶花』創刊。34年、『ホトトギス』同人。46年、休刊していた『山茶花』を復刊し、主宰した。

 「高浜虚子の弟子となり、その師にあたる正岡子規を慕っていました。子規同様に野球もしていました。北野中時代は左利きで投手をしていたそうです。左利きですが、文字を書くのは右。よく書斎で墨をすらされました。器用に両手を使って書いたりしていました」

 子規は日本に野球が伝わった明治期の選手として知られる。野球に関する多くの俳句、短歌、著作を残している。選手としては左投げの捕手だった。木国も子規の流れをくむ俳人で、左投げの野球選手だったとは、何とも因縁めいている。

 1958年には週刊誌の甲子園大会号に『草創時の思い出』と題する文を寄稿。<来る夏ごとに甲子園球場の一角に立って雲霞(うんか)のごとき十万観衆を目のあたりにした時、私はいつもホロリとした気持ちになるのである>と記した。

 また、前澤さんによれば、木国は大阪朝日新聞を退社後は大阪毎日新聞に移っている。「朝日に誘っていただいた方が退社をされて、毎日に移ったそうです。毎日では選抜大会の立案にも関わったと聞いています」

 第1回選抜中等学校野球大会の開催は1924(大正13)年4月。詳細な資料はないが、朝日で成功した経験が毎日でも生かされたのだと推測できる。夏の全国大会を創案した木国が春の選抜大会の創設にも関わっていたとなれば、実に興味深い。

 「私とすれば、おじいちゃんから聞いていた昔話だったのですが、その苦労や、できあがった大会の意義がいま分かります。100回を迎えるとは感慨深いですね」

 前澤さんはその偉業に思いをはせ、祖父同様に球児たちの熱闘を温かく見守っている。 =一部敬称略=  (編集委員)

 ◆内田 雅也(うちた・まさや) 1963(昭和38)年2月、和歌山市生まれ。夏の高校野球全国大会を創案した田村木国(本名・省三)の名前は、同郷・和歌山の偉人として知っていた。今回は和歌山の知人から孫の前澤崇さんをご紹介いただき、その人物像に触れることができた。俳人とは承知していたが、子規と同じ左投げの野球選手だったとは驚いた。

続きを表示

この記事のフォト

2018年8月5日のニュース