旭川実 95年北北海道勢唯一の8強 込山元監督「伸び伸び」が生んだミラクル

[ 2018年7月28日 09:00 ]

快進撃当時の紙面を見ながら笑顔の込山氏
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 【激闘の記憶】終戦から50回目の大会だった95年8月15日、高校野球史に残る激闘があった。旭川実が鹿児島商に15―13で逆転勝ちした試合だ。今も高校野球のアンケートで上位にランクされる激戦から次々と強豪を撃破。旭川実は北北海道勢として唯一のベスト8入りをした。あの夏のことは、監督を務めた込山久夫氏(72)の脳裏に、今も鮮やかに残っている。

 興奮冷めやらぬ場内に、校歌が流れていた。15―13。後に“ミラクル”と呼ばれる劇的勝利に何とも言えない感情があふれた。

 込山氏「スコアボードの文字は15と13。ヒット数は(旭川実)19本と(鹿児島商)18本。細野先生(細野豊次部長)と涙を流しながら“これ、甲子園だよね”と話していたんです。こんな試合ができたんだと」

 監督に就任したのは3年生が1年時の93年秋。前監督とチームがうまくいかず、野球以前の問題があった。就任後はまず、細野部長と2人で選手個々と話し合った。どういうチームにすべきか、自分の思っていることは何でも話してほしい。時間をかけて育てたチームの集大成だった。

 込山氏「このチームには走れる選手がいた。早川(達也中堅手)、坪崎(貴志二塁手)角井(修投手)…出塁して投手のモーションを盗めた時に選手が“走ります”のサインをくれたんです。鹿児島商の9回の角井はまさに二塁に行った時から何度も。待たせて待たせて、岸部(一孝主将)が四球を選んで一、二塁となった次打者の1球目に“行け”のサインを出した。初戦の松山商の坪崎の三盗もそう。長い経験の中でも生徒からのサインってそうないんですよ。そこまで意思疎通、戦いの中で信頼してやることが徹底していた。だから、大それた試合を何度もできたんでしょう」

 95年夏は同校として春夏通じて初出場。チームが力を発揮した伏線もあった。

 込山氏「初出場したし、よく頑張った、伸び伸びやろうと。バットケースにグラウンドの土を入れて持っていって、甲子園練習も試合の時も必ず試合前に守備位置にまかせた。うちのグラウンドも、甲子園も同じ。むしろ時間をかけて、つらい思いをして汗水流したのはうちのグラウンドだから。自分が(64年夏に旭川南の捕手として)甲子園で平常心でいられなかった悔しさがあって、同じ負けでも生徒には“甲子園”で戦った意識を持たせたかったんです」

 95年夏は、1月の阪神大震災の影響で甲子園へのバス乗り入れが禁止。チームは大阪府池田市内の宿舎から徒歩で蛍池駅に向かい、阪急電車で梅田に出て阪神電車に乗り換えて甲子園駅へ。そこから係員に先導された。鹿児島商戦後は「実業だ」と声を掛けられた。応援を肌で感じ、3回戦で春準優勝の銚子商に快勝。準々決勝で敦賀気比に惜敗したが、試合後にも一つの出来事があった。

 込山氏「高野連の人が、相手外野手の捕球(の可否)を巡って球場の外でお客さんが騒いでいるから帰るのはちょっと待ってくださいと。だいぶ待ちました。そしたら“バスが用意してあります”と。球場の通路を上ったり下りたりしたところにバスが着いていたんです。フェンスの内側だったかな。乗ったらバッと扉が開いて、宿舎まで送られたんです。最後までドラマみたいなことばかりでした」

 今年の夏、込山氏は久しぶりに甲子園に向かう予定だ。

 込山氏「100回ですし、だいぶ雰囲気の変わった甲子園を見てみようと。旭川実と一緒に行けなかったのは残念ですけど。甲子園は聖地。あの時と同じ、きっと入った瞬間に鳥肌立つんでしょうね」

 ◆込山 久夫(こみやま・ひさお)1946年(昭21)7月26日生まれ、旭川市出身の72歳。旭川南3年の64年夏に捕手で甲子園出場。卒業後は旭川野球協会、オール桐生でプレー。77年に旭川実の監督に就任した。その後、2度の監督退任を経て93年秋に監督復帰。95年夏から99年夏、03年春、06年春に甲子園出場。08年夏に勇退した。11年に日本高野連育成功労賞受賞。

 ◆95年夏の旭川実の戦い 1回戦で古豪・松山商に先発全員11安打で4回に一挙5点を奪って逆転勝ち。鹿児島商戦は2点を追う9回2死から4番・岡田隆紀が左翼へ特大ソロ。続くエース角井修の打球は三塁手の手前で走路に当たって大きく左翼線に転がる二塁打となった。岸部一孝が四球、さらに重盗で二、三塁として山崎正貴が左越え逆転三塁打を放つなど、この試合も先発全員19安打。3回戦は角井が6安打完投でセンバツ準優勝の銚子商に快勝し、敦賀気比との準々決勝は9回に岡田の左翼線2点二塁打で1点差に詰め寄ったが、力尽きた。

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