“道南の雄”函館有斗で春夏計13度甲子園 上野美記夫氏「甲子園は魔物だらけ それでも…」

[ 2018年7月27日 09:00 ]

現在の上野さん
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 甲子園に棲む魔物の中に足を踏み入れてほしい――。「激闘の記憶」第3回は“道南の雄”函館有斗(現函館大有斗)を春夏計13度甲子園に導いた上野美記夫氏(75)。阪急、オリックスで通算165勝を挙げた楽天・佐藤義則投手コーチ(63)、横浜(現DeNA)や近鉄で活躍した故盛田幸妃さんらを育て、函館有斗を強豪校へ押し上げた名将に当時の思い出を聞いた。

 函館から甲子園へ。名門・北海など強豪校に挑み続け、夢舞台に導くこと計13度。上野氏は懐かしそうに振り返った。

 上野氏「(函館)有斗というのは、この函館から甲子園を目指す。そこは変えませんでした。(地元の)子供たちに夢があれば僕らも力になる。(強豪校を)倒すためには何をしたら良いのかを考えました」

 43年1月20日、東京に生まれ、函館で育った。父の影響で競馬場に縁が深い。

 上野氏「親父の転勤で函館に来ました。親父が競馬場に勤めていた。騎手を目指した時期もありました。でも、小さい時の右手の指のケガの影響で左回りはいいんですけど…。体を動かすのは好きだったので野球をやるようになりました。監督になってからも室内の練習場がなかったので(冬は)競馬場を借りて馬小屋の端から端までを使い、ピッチング練習をしたこともありました。天井は低かったですけどね」

 監督に就任したのは63年。当時20歳だった。函館有斗を卒業後、社会人の富士製鉄室蘭に所属していたが、母校から監督に誘われた。指導の傍ら、教員免許を取得した。

 上野氏「口では言えないほど大変でした。あまりにも若すぎた」

 72年夏。佐藤義則投手を擁し、甲子園を懸けて決勝(対苫小牧工)に挑み、0―2で惜敗した。

 上野氏「今でも語り草。“義則、おまえの守備を鍛えなかった俺が悪かった”と。スクイズバントに焦ってしまった。本当は義則の時が甲子園だと思っていた」

 72年に秋の全道大会で優勝し、73年センバツに初めて出場した。

 上野氏「1つ勝ちました。私も甲子園は初めて。ノックで3回空振りしました。次に今治西に負けました。その時、(当時エースの)黒田がバントの構えをしたら、ぶつけられてしまって…」

 甲子園ですぐに初勝利を収める一方で、甲子園に行けない時期もあった。

 上野氏「なぜ甲子園は遠いのか。子供にきちんとした指導をやっていない。俺の失態だ、と思った。(野球の)本を手当たり次第に買って勉強しました。優秀な選手を育てている先生方の本。今も13冊くらいあります。僕の宝物です。大切なのは攻撃力。守るのは当然。問題はバッティングと走塁。それと、子供たちに溶け込んでいかなければ、いい指導はあり得ない」

 盛田幸妃投手の時には甲子園に85年夏、86年春、87年夏の3度出場した。

 上野氏「チームの勝利のため、と分かっていた選手。(全道大会の)北海との2回戦で3回までに5点取られたことがあった。“あと2点で(コールド負けで)終わりだな”と言うと、あいつは俺のそばにも来なかったが、ベンチで“俺が絶対に打つから必ずやってくれ”と言った。そうしたら左中間に二塁打を打って、続け続けで(試合を)ひっくり返した。ねじ伏せるだけの能力を持っていた。バッティングも良かった。8番でしたが、4番を打たせても良かった。違っていました」

 春夏合わせて計13度の甲子園。この夏、第100回の記念大会を迎える聖地とは。

 上野氏「甲子園のグラウンドには魔物がいる。何が起こるか分からない。勝たせてもらう時も負ける時も。(97年春の郡山戦のサヨナラ勝ちは)ショートにゴロを打って、なんでエラーするんだ、と思いました。投手も打者も、守りにしても魔物だらけ。それでも、魔物がいる中に足を踏み入れていこうという気持ち。そういう努力を、これからの選手にしてもらいたい」

◆上野 美記夫(うえの・みきお)1943年(昭18)1月20日生まれ、東京都出身の75歳。59年函館有斗に入学し、3年時は遊撃手で主将を務める。63年に函館有斗の監督に就任。一時部長を経て72年に監督復帰。73年センバツで初めて甲子園に出場。03年春に勇退するまで春6度、夏7度の計13度の甲子園に導く。

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