【山口】津田を「炎のストッパー」へと成長させた運命のカーブ

[ 2018年7月22日 08:00 ]

第60回大会2回戦   南陽工0―1天理 ( 1978年8月15日    甲子園 )

<天理・南陽工>一発に泣き惜しくも敗れ去った南陽工のエース・津田
Photo By スポニチ

 【スポニチ社員が選ぶわが故郷のベストゲーム】この夏、全国高校野球選手権大会は100回目。ふるさとチームの甲子園での活躍に熱くなった記憶を、北北海道から沖縄まで、今夏の代表校数と同じ56人のスポニチ社員がつづります。

 「ぶちはえー」と同級生の野球部員がびっくりした顔で話す姿を今でも鮮明に覚えている。そのピッチャーは、南陽工のツネゴンこと津田恒美である。津田が全国区になったのは甲子園初出場となった1978年のセンバツ。持ち前の剛速球でベスト8まで進出、夏への期待が高まった。

 夏の山口大会でも津田は剛腕を発揮し、決勝戦で宇部工を下し優勝、甲子園に駒を進めた。1回戦は宇治山田商に完封勝利、迎えた強豪・天理との2回戦は緊迫した投手戦となった。問題の場面は5回裏に訪れる。快調に飛ばす津田は1アウトを取り、迎える打者は8番・若井。ストレートで1ストライクを取った後の2球目が運命の1球となった。

 捕手のサインに首を振り、津田が選んだのはカーブ。真芯でとらえた若井の打球は左翼ラッキーゾーンに飛び込んだ。これが決勝点となり南陽工は0―1で敗退、津田の甲子園は終わった。

 この一球を教訓に津田は「弱気は最大の敵」を座右の銘とし、カープで「炎のストッパー」と呼ばれる伝説のピッチャーになっていくのである。病魔に倒れ1993年に32歳で惜しまれながら他界した津田は、今でも故郷山口県の英雄である。

 ◆清水 幹夫(大阪本社販売局)山口県熊毛郡平生町出身。80年柳井高校(春4回、夏7回甲子園出場、夏は優勝、準優勝が1回ずつ)。津田恒美は一学年上となる。

 <山口データ>

夏の出場 70回(通算73勝69敗)

最高成績 優勝1回(柳井=1958年)

最多出場 宇部商(12)

最多勝利 宇部商(19)

出場経験 26校、うち未勝利11校

続きを表示

この記事のフォト

2018年7月22日のニュース