【南大阪】46年後も鮮明な1球 明星“伝説の名投手”が後輩たちへ贈る言葉

[ 2018年7月15日 08:00 ]

第54回大会準々決勝   明星0―1津久見 ( 1972年8月19日    甲子園 )

力投する明星・辻内
Photo By スポニチ

 【スポニチ社員が選ぶわが故郷のベストゲーム】この夏、全国高校野球選手権大会は100回目。ふるさとチームの甲子園での活躍に熱くなった記憶を、北北海道から沖縄まで、今夏の代表校数と同じ56人のスポニチ社員がつづります。

 両右腕が好投し、ピンチは堅守でしのぐ。息詰まる投手戦。両者の意地が激突した一戦は、無情の結末が待っていた。9回裏無死一塁。明星・辻内がカウント1―1から投じた内角球は、左翼線へと打ち返された。

 「二、三塁か。満塁策から、どう攻めよう…」

 バックアップへ向かいながら、辻内は早くも善後策を練っていた。左翼手・大谷はクッションボールに備えたが、ポールの根元に当たった白球は不運にもファウルグラウンドへと跳ね返った。津久見の一塁走者・水江は迷うことなく三塁を蹴る。9年ぶり2度目の全国制覇はならなかった。

 「最後はあっけなかったね。あ然としながら、見ていた。甘いボールではなかったけれど、1球、カーブで様子を見ても良かったかな…」

 主将兼エースの記憶は、46年たっても鮮明だった。大阪大会54イニングでわずか1四死球という抜群の制球力。切れ味鋭いカーブも武器に、進撃を続けた。甲子園では東筑、姉妹校の海星を撃破。後輩である僕にとっては、伝説の名投手だ。

 「無欲のチーム。甲子園でも“1回は勝ちたい”という目標だった。練習時間は短かったし、凄い選手もいなかったしね。でもチームワークは抜群だったと思うよ」

 無用な上下関係を一掃し、3年生自らがグラウンド整備を率先した。頭脳プレーを掲げ、野球部員としての品格を重んじた。伝統は今も受け継がれる。「厳しい環境ではあるけれど、野球と勉強を両立している彼らを誇らしく思っています」。後輩たちへのまなざしは、どこまでも温かかった。

 ◆森田 尚忠(大阪本社報道部)2000年入社。八尾市出身。明星高では野球部マネジャー。

 <大阪データ>

夏の出場 99回(通算166勝87敗)

最高成績 優勝12回(浪商=1946、61年、明星=63年、興国=68年、PL学園=78、83、85、87年、大阪桐蔭=91、2008、12、14年)

最多出場 PL学園(17)

最多勝利 PL学園(48)

出場経験 30校、うち未勝利8校

 ※データは北大阪、南大阪を合算

続きを表示

この記事のフォト

2018年7月15日のニュース