ふぞろいの「W」、復員の「闘将」――名門・和歌山中の戦後再出発

[ 2018年7月7日 08:00 ]

1946年7月、和歌山県大会を控えた和歌山中野球部員。不ぞろいの帽子や「W」は手製ユニホームだったため。前列左から有田喜兵衛遊撃手、田原武捕手、和中道男投手、松嶋正治左翼手、井関康弘内野手、塩崎喜晟外野手、後列左から宇治田勝弘内野手、南本晴夫右翼手、藪中勝彦三塁手、加納享中堅手(主将)、竹内耕一一塁手、水野隆弘二塁手、辻川浩選手=『和中・桐蔭野球部百年史』= 
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 【内田雅也の広角追球〜高校野球100回大会余話】戦争で和歌山市は焼け野原となった。1945(昭和20)年7月9日深夜から10日未明の大空襲で1200人以上が亡くなった。市の象徴だった和歌山城も炎上、消失した。

 城にほど近い和歌山中(現桐蔭高)は奇跡的に無事だった。校舎の半分は兵舎、グラウンド北側はサツマイモ畑となり、バックネットは金属供出でなかった。昭和天皇台覧(1922年)に合わせて造られた自慢の観覧スタンド下には防空壕(ごう)が掘られていた。荒れ放題の状態だった。

 和歌山中(和中=わちゅう)は戦前1921、22年と夏の全国大会を連覇、27年に春選抜で優勝するなど、中等野球界名門中の名門だった。

 終戦後9月、学校が再開となると、予科練(海軍飛行予科練習生)から帰り、4年生に編入となった和中(わなか)道男や同級の有田喜兵衛、田中(旧姓加納)亨、名倉(旧姓田原)武ら元部員が集まり、野球部再建に向けて動きだした。

 当時2年生、14歳だった松嶋正治(87=和歌山市)は「まだまだ子どもだった私には予科練帰りの先輩は大人のおじさんだった。バリバリの軍隊式で“昼食を早くとり、北側スタンドの集合!”と、野球部員を募っていた」と話す。

 松嶋は市内中心部で海産物商を営んでいた父が野球好きで、小学生時代にはよく和中グラウンドに通った。夏の予選など主な大会が開かれていた。39年夏の甲子園大会で全5試合を完封する海草中(現向陽高)の嶋清一(戦死=野球殿堂入り)の故郷での雄姿も目に焼き付いている。

 当たり前のように入部した。当初は30人ほど集まったが、先輩の指揮で行われた連日の猛練習で半分ほどに減っていった。ただ「野球だけでなく勉強と両立させろ、など先輩の言葉には重みがあった。これが和中かと思った」。

 12月には全国連覇当時の一塁手で社会科教諭だった深見顕吉が沖縄・石垣島から復員し、監督兼部長に就いた。

 教職員倉庫に隠していたわずかの用具があった。傷んだバットにくぎを打ち、テープを巻いた。ボールの糸を縫うのは日課だった。グラブは交代で使い回した。スパイクはなく、運動靴か、はだしの者もいた。

 明けて1946(昭和21)年1月21日、朝日新聞に「条件許せば、今夏から野球大会復活」と社告が出た。主将の田中は「何よりも喜んだ。空腹も忘れ、夜遅くまでグラウンドを走り回った」と『和中・桐蔭野球部百年史』に寄せている。

 6月になると、青年将校だった先輩の西本幸雄(野球殿堂入り)が中国から復員、グラウンドに顔を出すようになった。当時26歳。社会人の別府・星野組に移るのは翌47年9月。後に監督として阪急、近鉄を球団初優勝に導く「闘将」が若きコーチとして鍛えた。

 春に入学した1年生だった神前孝之(84=和歌山市)はノッカーの西本にボールを渡す役目をしていた。ある時、1個のボールがこぼれ、2メートルほど横に転がった。拾い上げると「貴様」と怒鳴られた。「グラウンドでは3歩以上は走れ。これが戦場ならやられているぞ」。グラウンドは戦場だというわけだ。

 松嶋も「西本さんのノックはよく覚えている」という。「俗に言う“ひねくれた球”を打っていた。強い打球ではないが捕りづらかった」

 他にも連覇当時主力で早大を出て毎日新聞にいた井口新次郎(殿堂入り)、慶大監督で後に巨人内野手、国鉄(現ヤクルト)監督となる宇野光雄、慶大出の岩中英和ら先輩が訪れ、強化にあたった。

 夏の和歌山県予選は7月25日に開幕した。例年、夏の予選を開催していた和中グラウンドが荒れていたため、会場を和歌山商、海草中に移して行われた。

 大会に臨むユニホームは伝統の胸の「W」のロゴマークを各家庭が手製で縫い付けた。このため色、生地、大きさ、デザインがバラバラだった。予選前の7月に校庭で撮った写真をよく見ると、確かに「W」はふぞろいで帽子もバラバラ、なかには軍帽の部員もいる。

 松嶋は「マークは夜、母親が大きさや色を気にしながら丁寧に縫ってくれた」と覚えている。物資窮乏の折、田中は「誰も気にしなかった」と話していた。

 2回戦(初戦)で田辺中を20―8、準決勝で海南中を28―1、決勝で海草中を11―0と寄せ付けず、奈良優勝校と争う紀和大会進出を決めた。和歌山で優勝すると、1942年卒業の田端薫(田端酒造)がスパイクやストッキングなどを寄贈してくれた。

 これで8月3日、奈良・橿原での紀和大会には初めて全員そろいの格好で臨んだ。天理中を11―3と圧倒し、1932年以来14年ぶり、15回目となる夏の全国大会出場を決めた。

 3年生で9番左翼手だった松嶋は「奈良まで出向いて勝ち取った。あの感動は今も忘れていない」と72年前に思いをはせる。甲子園球場は進駐軍に接収され、全国大会会場は西宮球場だったが、そんなことは関係なかった。感激はひとしおだった。   =敬称略=

     (編集委員)

 ◆内田 雅也(うちた・まさや) 1915(大正4)年の第1回大会から夏の予選に休まずに出場し続ける皆勤校が全国に15校ある。和歌山中(現桐蔭)はその1校。ただ、100回の歴史のなかには部員不足で出場が危ぶまれた年もあった。今回、書いた1946年も戦後の苦労がしのばれる。野球記者として、また和中桐蔭野球部OB会の一人として、まとめておきたかった。1963年2月、和歌山市生まれ。慶大卒。

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