芦屋中「奇跡」の日々――戦後復活大会で兵庫代表

[ 2018年7月2日 11:00 ]

「芦屋のホープ」としてスポーツニッポン新聞で1面(大阪本社発行版=1949年8月13日付)に掲載された有本義明投手
Photo By スポニチ

 【内田雅也の広角追球〜高校野球100回大会余話】前年10月の創部から9カ月、1946(昭和21)年夏、芦屋中(現芦屋高)は全国中等学校優勝野球大会(今の全国高校野球選手権大会)兵庫大会に初めて出場した。

 前回の続編。3年生で身長1メートル60の右腕・有本義明(87)と主将で1メートル80もあった左利きの捕手・橋本修三のバッテリーである。

 1回戦は7月24日、明石公園球場(今の呼称は明石トーカロ球場)。尼崎中(現県尼崎高)を逆転の8―2で破った。2回戦は機械工業(現兵庫工高)に大勝。準々決勝で灘中(現灘高)と対戦した。春先の練習試合で何と1―20と大敗していた相手である。

 第4試合で午後5時半に始まった試合は何と芦屋中の打棒が爆発。5回表まで12―0と大差をつけた。裏の相手攻撃を2点までに抑えれば10点差で5回コールド勝ちだった。

 「ところが、一挙に12点取られたんや」と有本は言う。安打、四球に失策がからんだ。「もう、オレもへばってボールがいかんかった。何とか同点で止まった」

 6回は両軍無得点。7回表に3点をあげ、裏を0に封じると、日没コールドとなって、15―12の乱戦をものにした。

 翌日の準決勝の相手は甲陽中(現甲陽学院高)だった。戦前、全国大会に春夏通算12回出場、1923(大勝12)年には優勝している名門だった。誰もが甲陽中の勝利を予想していた。

 ところが芦屋中は3点を先取。1点差まで迫られた8回表、2死三塁からの難しいゴロを遊撃手・太田賢輔が一塁送球 間一髪アウトの微妙な判定でピンチを救った。その裏3点をあげて6―2で逃げ切った。

 試合終了直後、甲陽中側から数人が飛び出し、一塁塁審に殴りかかった。球審にも飛びかかり、シャツを破いた。敗戦に納得いかない甲陽中応援団が荒れていた。

 芦屋中の選手たちは試合後、明石公園球場の外にいくつかあった戦時中の防空壕(ごう)に隠れた。有本は「荒っぽい連中も多かった。球場から明石駅まで行けない状態だった」と言う。壕の足元には水がたまっていてヤブ蚊に刺されて困ったそうだ。「なかに、鳴尾小学校の同窓だった者がいて、外から“有本だけは勘弁してやれ”という声が聞こえてきた」。暴動がおさまるまで約1時間、隠れ、何とか脱出したのだった。

 決勝進出を決めたこの日の夜、選手たちは有本の家に集まり、すき焼きパーティーを開いた。主将・橋本は少しアルコールの入った部長の岸仁に「先生先生。もしもですよ。笑ってはいけませんよ。もしも明日勝って優勝したら、先生どうします」と問いかけた。『翠球十年史』に寄せた『回顧十年』にある。岸は「合宿さしてやろう」と答えた。選手たちははしを持ったまま「まかしとき!」と、すでに優勝合宿を思い描いていた。

 決勝は8月1日。相手は戦前、春夏各1度の全国制覇の経験がある関西学院中(現関西学院高)だった。強力チームほど有本のカーブ、チェンジアップは有効のようで、三塁ゴロが目立った。三塁手・森越迪夫の好捕好送球で応えた。5安打完封、4―0で本当に勝ってしまった。

 ♪夏夕凪の芦屋川 昔の光ほのみえて

 7月15日に完成したばかりの校歌を歌い、感激に浸った。

 創部10カ月の新興チームが準々決勝は日没コールドに救われ、準決勝、決勝と全国優勝の経験がある名門校を連破しての快挙だった。後にスポニチ本紙記者となった有本が『芦高五十年史』に<野球部の歴史は奇跡で始まった>と記した。

 <妙なことになったものだ>と雑誌『野球ニュース』が驚きを持って伝えている。<名もなき芦屋中が中等野球の本場とも言うべき兵庫県の覇権を握って全国大会に初登場する。全くもって思いがけぬことで――>。

 岸が約束した合宿は優勝から中1日はさんで8月3日が集合日だった。身支度をして宿泊先の本山第二小学校の作法室に集まり、1日8時間の練習計画が告げられた。

 翌日、練習場の甲南中グラウンドに行くと、コーチの石田良雄はもちろん、慶大現役選手だった松尾俊治ら臨時コーチが並んでいた。後に毎日新聞記者、日本野球連盟参与などを務める松尾は、この時の思い出を何度か書き残している。スポニチ本紙(東京本社発行版)1980年8月10日付には<最初に着手しようとしたのがこの左捕手>と記している。

 自身も捕手だった松尾は不利な左投げ捕手の代役を探した。だが、有本が「捕手をかえないでください」「ずっとこれでやってきたし、橋本さんのリードの方が投げやすい」と主張。そのまま全国大会に臨むことになった。松尾は<この橋本君は闘志満々、すばらしい根性の持ち主で、チームをぐいぐい引っ張っていた>と主将のリーダーシップをたたえている。

 全国大会は終戦から1年後の8月15日、西宮球場で開幕した。甲子園球場は進駐軍が接収しており使えなかった。

 芦屋中は開幕日の第3試合に登場、相手は高知県から初めて全国大会に出場する四国代表の城東中(現高知追手前高)だった。だが大舞台での緊張か、合宿の疲労か、守備陣は9失策をおかし、制球のいい有本も7四球と乱れ、ランニング本塁打も浴びた。打線も前田祐吉(慶大―慶大監督)に9三振を喫するなど、2―6の完敗だった。

 「学生野球の父」飛田穂洲は朝日新聞の戦評で創部間もない芦屋中に<大会初出場にして兵庫の代表権を獲得した奮闘ぶりは、たとひこの試合を失ったにせよ賞するに値する>と賛辞を贈り、再来を<待っている>と期待した。

 実際、有本は学制改革で新制高校2年となった1948年夏、3年の49年春夏と計4度も全国大会に出場した。甲子園は庭だった。49年選抜は準優勝に輝いた。

 有本はもう70年以上前のあの46年の夏を思い返す。「あの大会に中学3年で出たのは僕と一関中(現一関一高)の田村(泰延)だけだった。最初に全国大会を経験できたことが大きかった。あの後はどんな相手とも対等に戦える自信がついた」。そして「やはり奇跡だったなあ」と懐かしんだ。

 橋本には指揮官の素質があったのだろう。神戸大を出た後、母校・芦屋高の監督に就いた。52年夏、エース・植村義信(毎日、日本ハム監督など)を擁し、悲願の全国優勝を果たした。

      =敬称略=

     (編集委員)



 ◆内田 雅也(うちた・まさや) 仏スポーツ紙「レキップ」は1面を有名選手の大判写真で埋める大胆な紙面作りをしている、と教えてくれたのは中学時代の英語教師だった。有本義明さんの写真が1面を飾ったスポニチ本紙(大阪本社版)は斬新だが、仏紙の影響もあったかもしれない。1963年2月、和歌山市生まれ。桐蔭高(旧制和歌山中)―慶大卒。

続きを表示

この記事のフォト

2018年7月2日のニュース