新興野球部の「奇跡」――戦後復活大会に出場した芦屋中の少年投手と左利き捕手

[ 2018年6月29日 09:30 ]

1946年夏、全国大会出場を決めた芦屋中の有本義明投手(左)と左利きの捕手、橋本修三主将(有本義明さん提供)
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 【内田雅也の広角追球・高校野球100回大会余話】戦後復活した1946(昭和21)年夏の全国大会で、地元兵庫の代表となったのは創部わずか10カ月の芦屋中(現芦屋高)だった。3年生で投手だった有本義明(87=東京都目黒区)は<野球部の歴史は奇跡で始まった>と『芦高五十年史』に記した。

 まさに奇跡と言える日々を追ってみたい。

 1945(昭和20)年8月15日の終戦後、9月に新学期を迎えると当時2年生の有本は剣道部に入った。小学生時代から壁当てや天井投げをして野球に親しんでいたが、野球部はなかった。芦屋中進学は私学の甲南中受験に失敗したからで、この時も兵庫・西脇の疎開先で転校手続きに入っていた。「終戦がもう少し遅かったら、野球との出会いはなかった」

 そんな折、10月に校内軟式野球大会が芦屋・打出浜の海技専門学校であった。この時、野球好きの生徒12、3人が集まり「野球部をつくろう」と話が持ち上がった。

 中心となったのは4年生で、創部後主将に就く橋本修三だった。有本とともに社会科教諭で体育も指導していた岸仁に部長を依頼した。岸によると<職員会議では「腹が減るのに運動でもあるまい」との意見が多数(中略)難産であったがやっと承認されて、ここに芦中野球部は晴れて誕生した>=『芦高野球部50年史』=。

 空襲で校舎は全焼しており、グラウンドもなかった。宮川小、本山第一小などを間借りして練習を始めた。橋本は芦屋高野球部OB会「翠球会」の『翠球十年史』に一文を寄せている。<芦屋の野球部は焼木杭(やけぼっくい)の間から芽を出したぺんぺん草の様なものだった>。

 明けて1946(昭和21)年2月2日、初の対外試合が実現した。氷雨の降る寒い日だった。相手は神戸一中(現神戸高)。第5回大会(1919年)全国優勝の名門だ。橋本の兄・哲二が戦前、一中のマネジャーをしていた縁があった。

 グラウンドに着くと、「どうぞあちらの部屋で着替えてください」と言われた。芦屋中は通学で着る菜っ葉服に運動靴だった。恥ずかしさをこらえ、橋本は答えた。「いえ、着替えはいりません。ユニホームがないのです。ミットもマスクもありません。すみませんが、貸してください」

 しかも硬球を打つのはこの日が初めてだった。それでも試合は1―4。敗れはしたが、有本は「こんな相手と試合をしてくれるのかと思ったが、いい試合ができた」と感じていた。

 この後、練習場は主に六甲山の中腹にある兵庫師範学校(神戸大教育学部の前身)グラウンドを使っていた。放課後、阪急電車の御影駅で降り、急な坂道を上った。「毎日毎日、げた履きで通った。ふだん運動靴を履いている者など少なかった。道中で鼻緒が切れるので、はだしになった」。練習の行き帰りには精肉店も商う竹園旅館(現ホテル竹園芦屋)でコロッケを買って食べた。

 硬球は皆が三宮の闇市や古道具店からかき集めた。有本は戦前、甲子園球場のすぐ近くに住んでおり、球場によく通っていた。グラウンドキーパーの米田長次や藤本治一郎やプロ野球関係者に顔が利いた。阪神や中日、巨人からボールやバットを譲ってもらった。

 部員の岸本一司が家同士の付き合いがあった大阪城東商(現大商大高)出身の石田良雄がコーチに就いた。後にプロ野球・太陽ロビンス入りする外野手だった。石田は投手の有本に「ボールをわしづかみにして放ってみろ」と指導した。チェンジアップとなって空振りが取れた。

 カーブを教えてくれたのは当時、プロ野球・パシフィック(後の太陽・大陽・松竹)に在籍していた真田重蔵だった。戦前、海草中(現向陽高)の優勝投手で、1950年には今もセ・リーグ記録として残るシーズン39勝をあげる剛腕だ。「懸河のドロップ」と呼ばれた、落ちるカーブを得意としていた。

 有本によると「芦屋駅前で保険屋をしていた田鎖さんという方がいて、球団の事務局長のようなことをしていた。そんな関係から、真田さんや藤井勇さん(元阪神)らが指導にきてくれた」。

 真田は「カーブは親指の横腹で投げろ」と指導した。授業中、親指の皮を強くしようと机の角で叩いて、教師からよく叱られた。

 有本の父・臣次は育英商(現育英高)から関西大を出て、野球に親しんだ。西宮出身で甲陽中(現甲陽学院高)にも在籍した天知俊一(後に中日監督)と一緒の写真もあった。幼いころ、キャッチボールすると「ちゃんと捕れるじゃないか」と喜んだ。「少年時代の壁当ても役に立ったかもしれない」。真田は「おまえはコントロールがいい」とほめてくれた。

 練習場の兵庫師範のグラウンドではサッカーのゴールに網を掛けてバックネットにしていた。ある日、捕手の中村進が網掛けの作業中、クロスバーから転落し、左腕を骨折してしまった。

 代役の捕手を買って出たのが橋本だった。後に「捕手は怖いと皆、尻込みしたのと、二塁へ届く者がいなかったので、野球部をつくろうと呼びかけた責任から私がやるようになった」と語っている=朝日新聞=。

 ただ、橋本は捕手では不利な左投げだった。神戸・元町の闇市で進駐軍下がりのミット(むろん右投げ用)を買い、中の綿やパンを詰め替えて作り直し、右手にはめた。

 こうして身長1メートル60、後に「少年投手」と呼ばれる有本と、1メートル80の長身、左利きの捕手・橋本のバッテリーが誕生。復活した夏の兵庫大会で「奇跡」を起こすのである。 =敬称略= (編集委員)

 ◆内田 雅也(うちた・まさや) 有本義明さんはスポニチの大先輩にあたる。駆け出しのころから、豊かな原稿の視点や筆致をよくまねたものだ。若き当時からいただいた手紙は今もすべて保管してある。1963(昭和38)年2月、和歌山市生まれ。桐蔭高(旧制和歌山中)―慶大卒。

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