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“延長40回”から“幻の甲子園”へ――関口清治の悔恨と歓喜

西本幸雄監督(右端)の下、近鉄コーチ時代、キャンプ宿舎で指導する関口清治氏(左から2人目)。選手は左から羽田耕一、佐々木恭介、梨田昌孝(1975年2月、延岡)
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 【内田雅也の広角追球〜高校野球100回大会余話】関口清治は温厚な人柄で知られた。近鉄担当のころ、元監督のOBとして何度か接したことがある。

 1981(昭和56)年10月、勇退する西本幸雄が「これまでまじめにやってきたんだ。一度くらい日の当たるところでやるべきやろう」と打撃コーチだった関口を後任に指名した。

 監督を要請した当時球団部長・梶本豊治から「穏やかで、決して他人を責めはしない。すべて自分の責任において行動する人だった」と聞いた。

 その関口が「オレのせいで負けたんだ」と悔しがった試合がある。他界する2年前、2005年に取材した。

 戦前、日本統治下の台湾で台北工の野球部員だった1941(昭和16)年夏の大会である。

 全国大会(甲子園)は予選途中で中止が決まっていた。それでも行われた台湾大会では“延長40回”という空前の試合が記録されている。準決勝、台北工―嘉義農林戦で、3日間かかった。

 7月26日に対戦し、8回まで0―0で降雨中止となった。

 翌27日の再試合は7回まで0―0で再び雨のため中止となった。

 28日の再々試合は3回表に台北工が1点を先取、6回裏に嘉義農林が同点とし延長戦に突入。ゼロ行進が続いた。

 延長25回裏、サヨナラ負けを喫した。最後のシーンは西脇良朋『台湾中等学校野球史』によると、2死二、三塁から嘉義農林・柴田の<左翼越安打>とある。2年生、15歳の関口は「2番レフト」で出ていた。

 「いや、あれは私のエラー。バンザイしてしまったんですよ」。記録は安打だが、関口の口からは「エラー」と聞いた。

 試合開始午前11時2分、終了は午後4時31分、5時間29分の激闘だった。延長25回は1933(昭和8)年、全国大会準決勝、中京商(現中京大中京高)―明石中(現明石高)、同年春の近畿大会、海草中(現向陽高)―滝川中(現滝川高)に並ぶ最長記録だ。3日間通算では実に40回。嘉義農林野球部史『嘉農棒球』は<世紀大戦>と功績をたたえる。

 悔恨を背負って迎えた翌1942(昭和17)年夏の大会、3年生となった関口は3番サードや1番センターを務めた。

 準決勝で再び嘉義農林と因縁の対決。またも激戦となった。1―1で延長戦に入り、16回表、関口が左翼場外、土堤まで運ぶ決勝本塁打を放った。前年の雪辱を果たしたのだった。関口は高雄中との決勝でも本塁打を放ち優勝に貢献した。

 「余談になりますが」と関口の談話が先の『台湾中等学校野球史』に残る。「野球部に在籍していることは母しか知らず、父は柔道部にいると思っていた。ところが優勝が決まってから仕事仲間に『清ちゃん、えらいことしてくれたな』と言われ、『うちの息子が何か悪いことでもしでかしましたか』と尋ねる始末。その後優勝を知った父は大喜び。監督を含め選手一同を招き、盛大な祝勝会を開いてくれました」

 甲子園出場である。すでに書いてきたように、全国中等学校優勝野球大会(今の全国高校野球選手権大会)は前年から中止。代わって文部省とその外郭団体・大日本学徒体育振興会主催による錬成大会が陸上、柔剣道など10種目の1つとして甲子園球場で開かれた。主催が異なるため正史には残らず「幻の甲子園」と呼ばれる。

 台湾・基隆から神戸まで3泊4日、大阪商船・高千穂丸での船旅は「まさに命がけだった」と関口は語っていた。米潜水艦に撃沈される恐れがあり、渡航には親の承諾書が必要だった。船はジグザグ航行で進んだ。船上ではむやみに甲板に出ることは許されず、沈没を想定した避難・救命訓練が連日行われた。

 「それでも全員が台湾に生まれ育った者。初めて内地に行けるというのがうれしくてね」。神戸港に降り立った感激を忘れない。

 「戦時下に示さん、日本の底力」と橿原神宮での開会式には首相・東条英機も出席した。

 ユニホームの校名は敵性語のローマ字「HOKUKO」から「北工」、さらに「台北工」と変更させられた。選手は「選士」と呼ばれ、「敢闘精神に背く」と選手交代も禁止された。試合前あいさつは敬礼、サイレンは空襲警報以外に使えず、試合開始ではラッパが鳴った。

 台北工は大会第2日、8月24日、初戦で海草中に延長10回、2―3で惜敗した。関口は三塁打を放ったが、けん制で憤死する苦い経験もあった。「それでもいい思い出として残っているよ」と話していた。

 監督・岡本彰がご褒美だと言って、内地見物して回った。早坂隆の『昭和十七年の夏 幻の甲子園 戦時下の球児たち』(文藝春秋)に詳しい。当日夜は宝塚大劇場、翌日から奈良、京都、さらに東京見物も行い、29日に神戸港から高千穂丸に乗り、台湾へ帰ったのだった。

 優勝したのは徳島商だった。優勝旗ではなく「智仁勇」と染め抜かれた幟(のぼり)が渡された。「全国優勝記念」と書かれたウイニングボールが甲子園歴史館に保管されている。=敬称略=

     (編集委員)

 ◆内田 雅也(うちた・まさや) 1963年2月、和歌山市生まれ。桐蔭高(旧制和歌山中)―慶大。和中・桐蔭野球部OB会関西支部長を務める。大阪本社発行紙面で主に阪神タイガースを追うコラム『内田雅也の追球』を掲載12年目に入っている。

[ 2018年6月12日 10:30 ]

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