大会直前、突然の中止――優勝旗と眠った海草中

[ 2018年5月22日 09:45 ]

1940年夏、優勝投手となった海草中の真田重蔵=『和歌山県中等学校・高等学校野球史』より=
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 【内田雅也の広角追球〜高校野球100回大会余話】あのころ、選手たちは優勝旗の房をちぎってお守りにしたんや――なかには優勝旗を抱いて眠った者もいる――。

 死んだ父から何度も聞かされた逸話である。父は和歌山・向陽高を卒業していた。おそらく、同校に戦前から長く伝わる伝説なのだろう。

 野球記者となって知ったことだが、戦前、大阪の証券会社員の間で「房をお守りにすると勝ち運がつく」といううわさがたったそうだ。房だけをつけ変える修繕が行われていた。

 向陽高の伝説とは、旧制・海草中時代の1941(昭和16)年7月の逸話だ。当時、野球部員は「優勝旗を全員で返しにいこう」と合言葉に、全国中等学校優勝野球大会(今の全国高校野球選手権大会)3連覇の偉業に挑む夏だった。和歌山県予選を前に、校長から特別許可を得て、7月10日から校内の同窓会館で合宿に入っていた。この時に優勝旗を出し、房をお守りにしたのだ。

 その日は暑い日だったという。練習後、監督の長谷川信義(京都二中―明大OB)が選手を集めた。文部次官通達が届いたとして、夏の甲子園大会が中止になったことを告げた。

 日中戦争は長期化し、戦局は深刻化していた。小学校は国民学校と改められ、中学校の制服は国民服に戦闘帽に統一された。6月には独ソ開戦、7月には関東軍特種演習(関特演)、南部仏印進駐……と軍靴の音が大きくなっていた。

 海草中野球部生みの親の医師、丸山直広が1943(昭和18)年に編んだ『輝く球史』が<合宿練習開始して間もなく突如、本大会中止の報に接した>と、その時の様子を伝えている。<練習終えて楽しい夕飯に合宿へ飛んで帰ったところへ、中止と聞かされても本当にしないのは当然である>。主将の田中雅治(後に明大―朝日軍。戦死)やエース4番の4年生、真田重蔵(後に朝日軍、阪神など)らは信じられなかった。

 <選手たちは食膳の方へ見向きもせず、わっと泣きだした。そばで見ていて、ついもらい泣きさされる。全く慰めの言葉も出ない>。

 丸山は和歌山市苫屋町の自宅までどうやって帰ったか記憶にない。結(ゆい)踏一朗(毎日新聞記者・長岡民男)の『わかれは真ん中高め』(ベースボール・マガジン社)は妻・繁代に「今夜は日本中の野球部員がみんな泣いとる。誰もかれも、目標なくなってもてよ」と話すシーンが描かれている。

 真田は6月15日の浪華商(現大体大浪商)との練習試合で右肩を痛めていた。『輝く球史』で<時局の関係にて大会中止となり、私にとっては不幸中の幸いとなって、その後静養の結果、明治神宮に3連覇を成し遂げた>と、夏の甲子園大会中止より、秋の明治神宮大会優勝を書いている。

 この辺の心情を真田の先輩で、1939年の優勝投手、嶋清一の評伝『嶋清一 戦火に散った伝説の左腕』(彩流社)を書いた山本暢俊(高校教諭)が推し量る。「真田の文章は夏の大会中止に何か素っ気ない感じがするが、この『球史』が出た1943年は戦地に赴く直前で、もう甲子園どころではなかったのだろう。時局の空気で感情的な文章など書けなかったのではないだろうか」

 真田は最上級5年生となった1942(昭和17)年、文部省主催で開かれ、大会正史に残らない「幻の甲子園」でも年齢制限で出場できなかった。同年12月3日、主将として大阪朝日新聞社を訪れ、優勝旗を返還した。国民服にゲートル姿だった。

 卒業後はプロ野球の朝日軍に入団し、海軍で応召。特殊潜航艇に乗艦予定だったが、完成前に終戦を迎えた。「それでも艦長は“もう魚雷も積んで九分九厘出来ているので、アメリカの船が入ってきたら自爆する”という。兵舎の中で監禁されましてね。トイレに行くにも軍刀を持った監視がついてくるのです」=和歌山放送編『紀州人』(毎日新聞社)=。

 何とか生きて帰り、1946(昭和21)年、戦後再開のプロ野球で25勝。2リーグ分立の50年には今もセ・リーグ記録として残る39勝をあげ、優勝に貢献した。50、52年には規定投回数を投げながら打率3割を超えた。この投打記録は他に50年・別所毅彦(巨人)しかいない。大谷翔平(日本ハム―エンゼルス)の先をいく「二刀流」だった。

 引退後はスポーツニッポン新聞社(スポニチ)で評論家を務める一方、59年から明星高(大阪)の監督に就いた。63年夏の甲子園大会で優勝を果たしている。当時のスポニチに真田の手記が掲載されている。

 <松村(主将)が優勝旗を手にした姿を見て、私が優勝旗をもらっているような錯覚を覚えるほどうれしかった>

 優勝旗はあの海草中の合宿で寝食をともにし、独りゲートル姿で返還した「初代」ではない。傷みが激しく、58年に新調されていた。今夏100回大会には再度新調された「3代目」がお目見えとなる。

 選手では幻に終わった3度目の優勝を果たした真田のまぶたに浮かんでいたのは、戦争で中断されたあの夏だったかもしれない。  =敬称略=

  ◇  ◇  ◇

 夏の全国高校野球選手権大会が8月に100回大会を迎える。大きな節目に、その歴史といま、そして未来を見つめなおしたい。シリーズと呼ぶほど、まとまったものはできないが『高校野球100回大会余話』と副題をつけ書いていこうと思う。初めに、戦争による中断という悲しい歴史を振り返ってみたい。

     (編集委員)

 ◆内田 雅也(うちた・まさや) 高校野球の記憶で最も古いものは松山商―三沢の決勝戦だ。白黒テレビの画面で太田幸司投手を指さしていた。小学校1年生の夏休みだった。あれが第51回大会。大会の半分を見続けてきたことになる。4年生から新聞切り貼りとスコアブックでの記録に夢中になった。6年生になると、夏の歴代優勝校はそらんじていた。1963年2月、和歌山市生まれ。桐蔭高―慶大卒。

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