“悲運のエース”米子東・宮本 唯一の決勝サヨナラ被弾 運命分けたじゃんけん

[ 2018年1月31日 10:00 ]

第32回選抜大会決勝   米子東1―2高松商 ( 甲子園 )

春夏を通じて鳥取県勢唯一の決勝進出を果たす原動力となった米子東・宮本
Photo By スポニチ

 【センバツ群像今ありて〜第1章〜(4)】 89回を誇るセンバツの中で決勝戦でのサヨナラ本塁打は1本しかない。1960年の第32回大会決勝。米子東(鳥取)の宮本洋二郎投手が高松商(香川)の山口冨士雄内野手に左翼ラッキーゾーンに浴びた劇弾は、大会唯一のアーチでもあった。春夏通じて山陰勢が決勝進出したのは、この時の米子東だけである。(取材・吉村 貢司、森田 尚忠) =敬称略=

 50年以上の時がたっても忘れることはない。宮本に「打たれた1球」を問うと、即座に答えが返ってきた。優勝を逃したことに悔いはない。ただ、自身の選択を今も悔やんだ。

 「真っすぐ。1ボール2ストライクと追い込んで(自分が)一番得意なドロップはまだ早いな。内角高めに投げて振ってくれればもうけものと。色気が出たんやろね。それが甘く入った。やっぱり(最後まで)ドロップで勝負やったな…。悔いが残るね」

 宮本が高校時代に被弾したのは練習試合を含め「あの1本だけ。他にない」というアーチがセンバツ史上唯一の決勝戦サヨナラホームランとなった。ただ、この1本。運が左右する「じゃんけん」から生まれた、まさに偶然の産物だった。

 宮本 いつもうちは勝つと後攻めをとっていたのに、なぜか、あの時だけは監督が主将(吹野勝)に勝ったら先攻をとれ、と(後日に聞いた)。僕は後攻めと思い込んでいたのか、本塁打を打たれた時もずっとマウンドにおった。なんでみんな(本塁方向に)帰って来たのと。だから悔しさも全くなかった。

 山口 監督(若宮誠一)から「先攻をとってこい」と言われていたけど、僕がじゃんけんで負けた。監督に「すみません。後攻になりました」と謝った記憶がある。でも、それがあったからこそのサヨナラホームラン。今思えば、不思議な巡り合わせですよね。

 春夏通じ鳥取県勢唯一の決勝進出を果たす原動力となった宮本は、実は鳥取出身ではない。兵庫県尼崎市出身で、野球を本格的に始めたのは中学2年。中学では最初、陸上部に入ったが、球技大会で投手を務め3年生チームを抑え優勝。当時の野球部監督から、なかば強引に勧誘されたのがきっかけだった。高校は県尼崎へ進学を希望したが校区外。一度、大阪の高校に入学し1年の2学期から転校を画策したが兵庫県のライバル校などから邪魔をされ、かなわず。母・美代子の親類が米子にいたことから試験を受け米子東に編入した。同校は夏の選手権大会の地方大会皆勤15校の一つで県内の高校野球をリードしており、今でいう「野球留学」の形になった。

 清水賢(元東映)とバッテリーを組むなど当時のチームを「(力の均衡した)どんぐりがいっぱいいた」と表現。OBで元プロの岡本利之監督の指導は「めちゃくちゃ厳しかった」と振り返り、グラウンドの上にある勝田(かんだ)山で昼食をとる際、兵庫方面行きの電車を見るたびに「あれに乗れば(実家に)帰ることができる」と何度も思うほどだったが、着実に力を付けた。この年の出場は鳥取県勢にとっても米子東にとっても1935年以来25年ぶり、戦後初のセンバツ出場だった。以降、山陰勢の甲子園大会の最高は61年春の米子東、81年春の倉吉北と03年夏の江の川(現石見智翠館)のベスト4にとどまる。

 「後輩には、僕らは2番。1番の席は空けてあるんだからとOB会などで言っている」

 宮本は卒業後、早大に進学し、1年夏に交通事故に遭い再起不能といわれた時期もあったが復活し4年春にリーグ優勝。巨人、広島、南海で主に救援投手として活躍後、コーチやスカウトなどを歴任した。現在は愛知県にある日本福祉大で特別コーチを務めている。

 「準優勝でよかった。プロでも2番手というか救援だったし(スカウトなど)裏方をやった。2番手、3番手を誇りに思っている」

 偽りのない笑顔だった。

 《地元の英雄“準優勝パレード”》 決勝戦の2日後、米子に戻ったナインらは米子駅前から自衛隊のジープ型の車などで「準優勝パレード」を行った。岡本利之著「白球と共に」にも「沿道を埋め尽す人垣で身動きもできず、行進は各所で立往生した。紙吹雪、テープの乱れ舞うなかを自動車行進はナイン全員の家を順々に全市を廻った」(原文まま)とある。宮本も「僕の下宿先にも行ってくれた」と話した。米子に帰る電車内では鳥取に入ると「日の丸の小旗を振っている人を何人も見た。感動した」と振り返った。センバツ後は米子東が観光コースに加えられ校舎をバックに記念撮影する人も多く見られたという。

続きを表示

この記事のフォト

2018年1月31日のニュース