【星野の記憶】G・G・佐藤氏 2度の痛恨ミスも…一度も触れなかった「優しさ」

[ 2018年1月15日 08:35 ]

星野の記憶8~語り継がれる熱き魂~北京五輪日本代表、G・G・佐藤氏

北京五輪では米国との3位決定戦の3回、飛球を落球するG・G・佐藤
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 名古屋出身の父の影響で、中日・星野監督のファンだった。北京五輪の日本代表メンバーに選んでいただいた時は夢のようだったが、本番で2度も大きなミスを犯してしまった。申し訳なさと感謝。最後まで直接気持ちを伝えられないまま、旅立たれてしまった。

 08年8月22日、韓国との準決勝。左翼への飛球を落球し、このミスをきっかけにチームは敗れた。試合後のミーティングで、星野さんは「切り替えて銅メダルを獲りにいくぞ」とおっしゃったが、個人的に言葉を掛けられることはなかった。

 翌日、星野監督に「自信がないので試合には使わないでください」と直訴するつもりだった。なのに3位決定戦の朝、朝食会場に行くと、貼り出されていたスタメン表には自分の名前が…。「うそだろ」。信じられなかった。「やるしかない」と腹をくくったつもりが、またしても自分のミスでメダルを逃した。

 帰国後、すぐに手紙を書いた。「すべて私のせいです。申し訳ありませんでした」。返事はなかったが、翌年のオープン戦で、主将だった宮本慎也さんから「星野さんに手紙を書いたんだって?“気にしなくていい。野球界のためにこれからも頑張れ”と言っていたよ」と伝言を受け取った。

 その後、ロッテに入団し、楽天監督だった星野さんと再会した。「元気か?しっかり守れよ!」。星野さんは笑顔だったが、恐縮してしまい、頭を下げることしかできなかった。準決勝でミスをした僕の将来を考えて、すぐにチャンスを与えてくれたと人づてに聞いた。代表チームの解散式。壇上で「負けたのはすべて私の責任です」と頭を下げていた。その姿は忘れられない。

 最後にお会いしたのは昨年11月末の殿堂入りパーティー。凄い行列であいさつができなかった。星野さんは一度も僕にミスの話をすることはなかった。きっと、優しさなんだと思う。この場を借りて言わせてください。本当に申し訳ありませんでした。そして、ありがとうございました。

 ◆G・G・佐藤(佐藤隆彦=さとう・たかひこ)1978年(昭53)8月9日、千葉県生まれの39歳。桐蔭学園―法大―フィリーズ1Aを経て、03年のドラフト7巡目で西武に入団。11年に戦力外となり、イタリア・ボローニャなどを経て、テスト入団で13年からロッテ入り。14年現役引退。通算587試合、打率・276、270打点、88本塁打。右投げ右打ち。

 《サラリーマンで「燃える男」継承》G・G・佐藤氏は14年限りで現役引退。現在は地盤改良・測量会社「トラバース」の千葉営業所長として「星野イズム」を継承している。所長就任にあたって「燃える千葉営業所」というスローガンを掲げた。部下との関わりで大切にしていることがある。「ミスをした部下にはすぐにチャンスを与える。北京五輪で自分がしてもらったように」。野球の世界から離れたが、星野さんの教えを第二の人生で生かしている。

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