田淵氏 星野氏を悼む「親友が亡くなったショックはこんなに凄いものなのか」

[ 2018年1月7日 08:30 ]

学生時代の2ショット写真を懐かしそうに見つめる田淵氏
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 仙ちゃん、さらば――。楽天球団副会長の星野仙一(ほしの・せんいち)氏が4日午前5時25分、膵臓(すいぞう)がんのために死去した。同学年の親友で、大学時代から50年以上の親交がある田淵幸一氏(71=スポニチ本紙評論家)が、天国へと旅立った盟友に涙のメッセージを寄せた。

 まさか…。今朝、娘さんから電話で知らされた。「パパが…」。体調がよくないのは知っていたけど、こんな急に逝くなんて…。一番の親友が亡くなったショックは、こんなに凄いものなのか。女房と2人号泣した。

 新年を迎えた元日の午前0時1分。ここ数年恒例になっている年賀メールを送ったら、8時43分に返信があった。「おめでとう」の後に下向きの矢印が3つ続き、最後に「いつもありがとう!」と添えられていた。

 下向きの矢印も「ありがとう」のフレーズも今まで使ったことがない。気になって電話したら「殿堂入りのパーティーが終わって疲れちゃってな。歩くのもヨタヨタだよ」。か細い声だったけど「頑張ってゴルフやろうな」という言葉を聞いて少し安心した。その3日後に…。うそだろうと思った。

 膵臓がんなんて知らなかった。痩せてきたのは忙しさと糖尿病のせいだと思っていた。昨年5月、私が腹部大動脈瘤(りゅう)の手術を受けたとき、見舞いに来てくれた仙ちゃん。「ブチ、大丈夫か?気ぃつけないかんぞ」と励ましてくれた。あの時すでにがんに侵されていたかと思うと胸が締め付けられる。人には弱みを見せない男だった。

 法政と明治。大学1年生から50年以上の付き合いになる。学校は違うのに妙にウマが合った。性格が全く違ったからかもしれない。気迫あふれる投球。私は六大学通算22本塁打を打ちながら、彼からは1本も打てなかった。

 阪神と中日。互いに打倒巨人に燃えたプロ入り後、仙ちゃんから初めて打ったホームランは甲子園球場の左中間中段、出入り口の看板を直撃する最長不倒弾だった。この話題になると「おまえが振ったところへ投げてやったんやないか」。いつもこう言い張った。

 初めて同じユニホームを着たのは2002年の阪神。「やるぞ。シマや。シマのユニホームを着るんや」。友達から監督とコーチの関係に「仙ちゃん」から「監督」と呼び方が変わるのに抵抗はなかった。厳しさの中に繊細な気配りのある人心掌握術。男がほれる男だった。03年に18年ぶりの優勝。2人ひしと抱き合ったのが一番の思い出だ。

 08年北京五輪、11年から2年間の楽天でも続いた関係。一蓮托生(いちれんたくしょう)で戦えたことを誇りに思う。でも、15年5月に飛び立った法政三羽ガラスの一羽、富田勝に続いて逝ってしまうなんて…。もうちょっとゆっくり人生を楽しんでせめて背番号と同じ77歳まで生きてほしかった。

 もうメールも電話もゴルフもできないんだなあ。寂しいよ。つらいよ、仙ちゃん。こちらこそ、ありがとう。(本紙評論家)

 ≪阪神、五輪、楽天でタッグ≫星野氏と田淵氏は東京六大学リーグ時代から明大、法大の垣根を越えて交流。68年ドラフトで星野氏は中日、田淵氏は阪神に1位入団し、中心選手として同じセ・リーグで死闘を繰り広げた。対戦成績は69〜78年の10年間で113打数34安打、打率.301、9本塁打、23打点。星野氏の阪神監督就任以降は監督―コーチの間柄が続き、田淵氏は02〜03年に阪神でチーフ打撃コーチ、08年北京五輪ではヘッド兼打撃コーチ、11〜12年は楽天のヘッドコーチを務めた。

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