大リーグ公認歴史家に聞く米二刀流の系譜「大谷の登場に意味はある」

[ 2017年9月5日 09:00 ]

大リーグ公認歴史家のジョン・ソーン氏
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 今オフにもポスティングシステムでメジャー移籍の可能性がある日本ハム・大谷翔平投手(23)の米国内での注目度ががぜん高まってきた。米球界で二刀流といえば、ベーブ・ルースが有名だが、草創期から20世紀初めにかけては他にも数多く存在した。ここに来て再び注目を集める二刀流選手の歴史を、大リーグ公認歴史家のジョン・ソーン氏(69)に聞いた。 (奥田秀樹通信員)

 ◎全盛期――19世紀、1チームはわずか10〜12人 病気やケガ以外の交代認められず

 19世紀の大リーグは、投手も打撃の能力が高ければクリーンアップに座り、登板しない日は他のポジションを守った。大きな理由に、当時は1チームが10〜12人程度に決められていたという事情がある。そんな中でもソーン氏が「当時最高の二刀流」と挙げたのがガイ・へッカーの名だ。

 ヘッカーは1882年〜91年に存在したプロリーグ、アメリカン・アソシエーションのコロネルズで主にプレーした。メジャー3年目の84年に52勝(20敗)、防御率1.85、385奪三振で投手3冠に輝き、外野手としても5試合出場。同年の打撃成績は投手としての出場時も含め、打率.297、4本塁打、42打点だった。

 86年には28勝し、投手として大リーグ史上唯一の首位打者に輝いた。登板しない日は一塁、外野を務め、打率.341をマーク。ソーン氏は「8月15日は先発で勝利を挙げ打っては7打数6安打、3本塁打。投手の1試合3本塁打は初の快挙」と話す。

 メジャー生活は9年。84年には73試合に先発し、670回2/3を投げるなどの酷使がたたった。肩肘のひどい痛みに悩まされ、90年限りで現役を引退。通算175勝を挙げ、野手としては一塁で322試合、外野で75試合に出場して通算812安打、19本塁打、打率.282だった。

 ◎衰退期――1900年以降にルール変更続出 選手枠拡大で野手増加

 大リーグ草創期の二刀流全盛時代に一区切りをもたらしたのは、近代野球と呼ばれる1900年以降に相次いだルール変更だ。ソーン氏は「1891年に、それ以前は病気やケガ以外では許されなかった交代が認められるようになった。ベンチの選手数も少しずつ増えていった」という。1901年に1チームの選手枠が14人、08年17人、14年に25人となり、野手の控えが増えて分業化が進む。投手は打てなくても構わない――そんな流れが生まれ、投手の打撃レベルが一気に下がった。

 しかし、二刀流は絶滅しなかった。20世紀の代表格はもちろんベーブ・ルースだが、ルースより13年遅い27年にメジャーデビューし、史上最強の打力を誇った投手ウェス・フェレルがいた。インディアンスなどで通算15年間で193勝を挙げ、20勝を6度マーク。通算38本塁打は、投手の最多記録だ。肩を痛めた33年のシーズン終盤は左翼手として13試合に出場している。

 ◎絶滅期――1960年代DH制の導入で分業化進行

 大リーグは60年代に入ると、極端な「投高打低」の時代となった。そのため、ア・リーグが73年にDH制を採用。投手が打つ機会そのものが激減し、現在に至る。ソーン氏はこうした分業化の流れに異を唱え、大谷に期待を寄せる。

 「私は大谷に二刀流でメジャーに来てほしい。分業が進んだため、プロとは思えない投手のお粗末な打撃やバントを見せられる。加えて25人の限られた選手枠でブルペン投手が増えたため、控え野手が少なく、監督は毎試合やりくりに頭を抱えている。大谷のような選手の登場はとても意味のあることだ」

 カブスの知将ジョー・マドン監督はワールドシリーズを制した昨季、レギュラーシーズンでリリーフ左腕ウッドを3試合計5イニング、左翼で起用した。ジャイアンツのバムガーナーら、打撃に定評のある投手も少なくない。大谷が移籍すれば、しばらく米国で眠っていた偉大な二刀流の系譜をよみがえらせるかもしれない。

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