もう一度、野球がしたいねん――病と闘った永遠の野球小僧、絆のラストゲーム

[ 2017年7月4日 10:00 ]

「岩根さん 癌晴って!!」の横断幕を手に記念撮影する「EVISU ボアーズ」と明星OBチーム
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 降りしきる雨さえも、野球の神様による粋な演出だったのかもしれない。2017年4月15日。癌闘病する一人の男を励まそうと、大阪府柏原市に多くの野球仲間が集まることとなった。かつて大阪の高校球界をリードした「私学7強」のOBを中心として構成された「EVISU ボアーズ」対「明星OB」の対戦。試合開始は午後1時を予定していた。だが、当日の天気予報は「昼前から崩れて午後は雨」。朝は晴れ間が広がったが、その後は雲行きが怪しくなっていった。予報通りに昼前から雨…。最悪、中止も想定されたが、午後1時が近づくにつれて雨雲は徐々に遠ざかった。やがて日が差し、無事にプレーボール。イニングが進むとともに、晴天が広がっていった。

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 昭和30年代後半から50年代前半にかけて、大阪の高校球界は「私学7強」と呼ばれる各校が甲子園出場をかけてしのぎを削っていた。浪商(大体大浪商)、興国、明星、PL学園、北陽(関大北陽)、大鉄(阪南大高)、近大付。全国でもまれに見るハイレベルな争いはそのまま、甲子園での好成績につながった。

 昭和34年度生まれが最上級生となった世代は、大鉄が強かった。エース左腕・前田友行(元阪神)と、強肩強打と俊足を誇った捕手・鍛治本明典がバッテリーを組み春夏連続で甲子園に出場。夏は3回戦の津久見戦で川端正が大会史上初となるサヨナラ満塁本塁打を放つなど、ベスト4へと進出した。

 高校野球ファンを熱狂させたライバル関係も、いざ現役を引退すれば、互いを認め合える存在になっていた。野球エリートの私学7強に進むだけあって、多くはボーイズ、シニアリーグ時代からの顔見知りだった。高校卒業から、数年が経過した頃。昭和34年度生まれの面々はPL学園OB・杉本昌彦、興国OB・山崎浩らが中心となり、その輪は徐々に広げていった。杉本が「俺たちは普通の仲間じゃないから」と言えば、北陽OB・中本導男は「一生付き合える。みんなで会えるのは最高の時間」と頷く。集まりはやがて「野球小僧会」と命名され、永久幹事には山崎が就任した。

 明星OBだった岩根正英もそのメンバーの一員だった。飲み会、ゴルフコンペといったイベントがあれば、その都度、顔を出し、笑わせ役として会を盛り上げた。優しくて、気さくで、豪気で、頑固で、それでいて粋…。言葉は多少乱暴でも、裏表は全くない。物事の筋道を通し、男としての仁義を重んじた。その人柄は誰からも慕われ、岩根の周りには自然と人が集まった。

 ボーイズリーグ・西成のエースとして、岩根は名の知れた投手だった。ジュニアホークスから近大付に進んだ藤原映精は小学6年時、阪南地区の選抜チームで岩根とともに九州遠征した経験を持つ。「野球センスがあって、良いピッチャーでした。小学生のころ、大阪球場で対戦したのも良い思い出ですね。高校時代、対戦はなかったけれど、試合の入れ替えでベンチ横ですれ違ったり。40年以上にわたる付き合いです」。中学から明星に進学した岩根と同じチームになることはなかったが、藤原の脳裏には今も岩根の雄姿が焼き付いている。

 岩根は柔道整復師・鍼灸師として、活躍していた。1985年1月22日に開業。12・8坪のテナント2階から始まり、4年後には東大阪市下小阪に診療所を移転した。1日の患者来院数は200人を超え、あの名作家・司馬遼太郎も治療に通った。確かな腕は多くの信頼を集め、大相撲春場所の際には若乃花、貴乃花、貴闘力を始めとする二子山部屋の力士も多数訪れる程だった。

 交流は途切れることなく続いたが、野球チームを結成したのは7、8年前のことだった。PL学園剣道部OBでエヴィスジーンズの代表取締役会長・山根英彦が杉本と同級生だった。そのつながりもあり、野球好きの山根がオーナーとなって「EVISU ボアーズ」を立ち上げた。ボアー(Boar)は英語でイノシシを意味する。昭和34年の干支にちなんだものだった。山根がデザインしたユニホームはもちろん、エヴィスのロゴ入り。大阪・ミナミで行われたユニホーム授与式は、大いに盛り上がったという。岩根は明星では控え投手として「10」を背負ったが、ボアーズでは「俺はみんなの救急隊や」という意味を込めて「19」を身につけた。

 そんな岩根から、思いも寄らない知らせが入ったのは、17年2月25日のことだった。フェイスブック(FB)を通じて、癌による余命宣告を受けたことを報告したのだ。岩根を慕う多くの仲間にとって、簡単には受け入れることができない現実だった。信じられないし、信じたくもなかった。だが、いつまでも、うつむいている時間はない。何より、闘病を決意した岩根自身が、毅然とした態度を貫いた。過酷な現実に正面から向き合う姿は、ともすれば周囲の人間を勇気づけた。

 言うまでもなく、野球小僧会の動きは素早かった。杉本は石切でお百度参りし、護摩木を納めた。岩根の「みんなで集まって歌いたい」という願いを受け、山崎とともに手はずを整えた。報告から1カ月も経たない3月19日。約3時間にわたって、岩根を囲んだ。会の締めくくりでは、岩根が「サライ」を熱唱した。誰もが涙を流し、奇跡を祈った。大鉄OB・鍛治本はしみじみと、会の様子を振り返る。

 「カラオケを歌いながら、みんながあちこちで泣いているんです。岩根本人と話している時は何ともない。いつも通りなんですけどね…」

 野球を愛した岩根には、もう一つの願いがあった。3月上旬、杉本が自宅を見舞った際、こうも言った。

 「最後にもう一度、野球がしたいねん」

 応援マッチ開催に向けて、幹事役を任されたのが日高啓だった。私学7強のOBではない。だが、野球少年だった日高は幼い頃から、明星の大ファンだった。明星が最後に甲子園へ出場した72年夏。準々決勝で津久見にサヨナラ負けを喫した際には、号泣したエピソードを持つ。

 様々な縁がつながり、日高は岩根と出会った。日高は岩根に惹かれ、岩根は日高を可愛がった。3月19日当日も、岩根から誘いを受け会場に足を運んでいた。岩根を励ますための試合開催を杉本に打診すると、杉本をはじめとする「野球小僧会」も全く同じことを考えていた。すぐさま、日程の調整まで話が進んだ。日高は気候も暖かくなる5月の連休明け以降をイメージしていたが、杉本の考えは違った。

 「4月に入れば、岩根も本格的な治療に入るから、あまり時間はない。いざ治療が始まれば、どんな状況になるかも分からない。日高さん、4月15日にフィックスして、準備を進めましょう」

 日高は寸暇を惜しんで奔走した。思いは一つしかない。「とにかく岩根さんを元気づけたい。岩根さんが一番好きな野球と明星がキーワードでした」。奇跡が起こることを信じ、応援マッチを成功させるべく懸命に動いた。今回限りではなく、来年以降も激励試合が続くことを願って「第1回 IWANE CUP 癌晴杯」と命名。明星OBも快諾し、「野球小僧会」のメンバーで構成する「EVISU ボアーズ」と明星OBチームの対戦が決まった。横断幕、岩根から勝利チームに手渡される優勝カップの手配。明星OBの伝手で、柏原市内のグラウンドも確保した。花束贈呈、参加者からの激励メッセージをしたためた色紙の作成、記念撮影…。日高によって完璧と言える綿密なスケジュールが練り上げられた。

 にもかかわらず、4月15日当日は、横殴りの激しい雨が容赦なくグラウンドを打ち付けていた。その場にいた誰もが、絶望的な気分で空を見上げた。刻一刻と近づく開始時間。それでも、男たちはあきらめていなかった。病と闘う仲間を、何としても励ましたい―。

 やがて思いは届いた。浪商OB・山本正一は遠ざかる雨雲を見つめながら、感謝した。

 「こんなことって、ほんまにあるんやな。野球の神様の力、野球の神様が俺たちに楽しく、野球をやらせてくれるんや」

 予定通り、試合は13時に始まった。90分、7イニング制。岩根は前半はボアーズ、後半は明星のベンチに入った。もちろん、それぞれのユニホームを身にまとって。誰もが甲子園を目指し、純粋に白球を追いかけたあの頃に戻って、プレーした。鍛治本は言った。「明るく、元気に。みんなで明るく、元気に野球ができた」。ボアーズから代打・岩根が告げられると、グラウンドには一際、大きな笑顔の花が咲き誇った。打者走者は日高が務め、見事な内野安打。ボアーズの仲間は、ハイタッチで岩根を迎えた。

 岩根が登板したのは、明星が2点リードで迎えた最終回2死の場面だった。背番号10。準決勝で大鉄に敗れた最後の夏と同じ背番号だった。一歩一歩、確かな足取りで、マウンドへと向かう。慣れ親しんだ戦場へたどり着くと、岩根は帽子を取り深々と一礼した。

 「みんな、ありがとう。野球、明星、ありがとうございます…」

 岩根が一礼した約7秒間は、時が止まったかのようだった。その瞬間だけは、あれだけ賑やかだったグラウンドが、静寂に包まれた。岩根が生涯持ち続けた野球に対する真摯な姿勢、ひたむきな思いを象徴する一コマだった。

 一礼を終えると、感謝の2文字を胸に刻み、打者と対峙した。サイドスローも、甲子園を目指したあの夏と変わらない。1球、2球、3球…。投げるごとに感覚を取り戻し、投球は安定していった。2ストライクと追い込んだ7球目。ボアーズ・山根のバットが空を切ると、明星の先輩、同期、後輩が岩根の周りをぐるりと囲んだ。一人、一人と握手をかわす。自称「永遠の秘密兵器」は自らの手で、生涯最後の一戦を締めくくった。

 試合後のセレモニーでは、明星で岩根と同級生だった木村賢一が熱いメッセージを送った。

 「俺と岩根は現役時代から、男らしさ、男としての器量を競ってきた。男としての生き様にこだわりを持って、高校時代も3年間、野球に打ち込んだ。こういう形にはなってしまったけど、岩根のことやから克服してくれることを信じています」

 岩根もまた、心のこもったメッセージを仲間たちに送った。

 「自分の病気が一つの縁になって、明星OB、同学年の私学7強の野球小僧が交流を深め、集まってくれてとてもうれしいです。あながち、自分の病気もムダではないと思います。とても楽しい、記憶に残る一日になりました。こんな病気ではありますが、精いっぱい、みなさんの気持ちに応えたい」

 病気になってもなお仲間を想う、岩根らしい言葉だった。だから、仲間に愛され、野球に愛された。岩根とその仲間たちがグラウンドを去る15時過ぎからは、再び雨が降り始めた。それぞれの祈りが通じた2時間の奇蹟だった。

 5月2日、岩根は闘病を終え、天国へと旅立った。当日、面会の約束をしていたこともあり、山崎は亡くなった直後に自宅へ到着した。「いま思えば、最後の気力を振り絞ってたんやないのかな。野球をやってなければ、歩くことも、立つこともできなかったと思う。立派でした」。的確な判断で試合開催を実現させた杉本は改めて、野球を通じて結ばれた固い絆に思いをはせる。

 「私学7強と言っても、我々のような集まりは他にないんじゃないかと思う。卒業すれば高校は関係ない。同じ地域で、同じ野球というスポーツで切磋琢磨した。もしかしたら、無理をさせてしまった部分もあったかもしれないけれど、我々としては悔いを残すことなく、岩根を送り出せたと思います」

 悲しみをこらえながら、山本はメンバーの総意を代弁した。

 「最後まで弱みを見せない生き様には勉強させてもらいました。岩根、向こうで待っといてくれ。また、みんなで野球するぞ!」

 岩根の葬儀・告別式が営まれた5月4日。13時の開始時間に合わせ、明星ナインは大阪市内の母校グラウンドで黙祷を捧げた。夏の大阪大会初戦、14日に予定される天王寺戦は花園球場で行われる。岩根の自宅から直線距離で、5キロにも満たない。

 「よっしゃ、ええぞ!」

 「おい、こら〜!頑張らんかい!」

 天国から、後輩を励ます声が聞こえてくる。=文中敬称略

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