中日・荒木「守備と走塁の人間が…」22年目の2000安打 右打席専念が転機

[ 2017年6月4日 05:30 ]

日本生命セ・パ交流戦   中日1―5楽天 ( 2017年6月3日    ナゴヤドーム )

<中・楽>2000安打を達成し、楽天の星野球団副会長(左)から花束を贈られる荒木
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 止めたバットで決めた!中日の荒木雅博内野手(39)は3日の楽天戦で4回に右前打を放ち、史上48人目の通算2000安打を達成した。入団5年目までわずか15安打しかなく、33本塁打での記録到達は歴代最少。人並み外れた練習量で打撃技術を磨いた努力の人が、プロ22年目で金字塔を打ち立てた。

 万雷の拍手が注ぐ。荒木は右手を上げ、総立ちのナゴヤドームの観客に応えた。

 「まさか止めたバットでヒットになるとは。いいところに飛んでくれました。誰ひとり忘れることないくらい感謝を伝えたい」

 4回1死。美馬の外角スライダーに手が止まりかかったが、バットに当たった打球は右前で弾んだ。入団時の監督だった楽天・星野仙一球団副会長から花束をもらい、頭をぐしゃぐしゃに撫でられると「半分、泣いてました」。目に光るものが浮かんだ。

 その星野監督の助言で3年目の98年から両打ちに挑戦。2000安打のうち2本は左打席で放った。だが、6年目の01年春。オープン戦で右投手の巨人・入来に対し右打席に立ち、二塁打を打った。「そこでもし左で打っていたら、今はなかったかもしれない。転機になる打席だった」。そこからは右一本。同年は1軍に定着し111試合で打率・338を記録した。レギュラーへの道が開けた。

 95年ドラフト会議。中日は7球団競合の福留孝介(現阪神)のくじに外れ、外れ1位でも原俊介(元巨人)のくじに外れた。当時の担当スカウトが「4位の算段だった」という荒木が「外れ外れ1位」で指名された。

 当時の評価は「足と守備の選手」。打撃練習では「前に飛ばない」とバカにされた。2000安打は雲をつかむような数字だった。苦しい2軍暮らし。ファームの遠征を終え名古屋へ戻る際、広島駅で博多行きの新幹線を見て「これに乗って(九州の実家に)帰りたいな」と両親に弱音を吐いたこともあった。

 「守備と走塁の人間がずっと試合に出ることができたから、ここまで来られた」

 自らを「へぼバッター」と言う。2000安打達成時に通算33本塁打は史上最少。「33本しか打てない選手だったから徹底して小技もやってきたし、右打ちもしてきた。33本のおかげで2000本打てた」。誰よりも練習に励んだ努力の男だからこそ得た勲章だった。 (徳原 麗奈)

 ◆荒木 雅博(あらき・まさひろ)1977年(昭52)9月13日、熊本県生まれの39歳。熊本工では2、3年時にセンバツ出場。95年ドラフト1位で中日に入団し、初出場は2年目の97年5月31日ヤクルト戦。07年に盗塁王、ベストナインは04〜06年。ゴールデングラブ賞は04〜09年に獲得。08年の球宴第2戦でMVP。16年8月6日のDeNA戦で高木守道を抜き球団新記録の370盗塁を達成。1メートル80、74キロ、右投げ右打ち。

 ≪33本塁打で到達は歴代最少≫荒木(中)が3日楽天戦の4回に美馬から右安打を放ち通算2000安打を達成した。プロ野球48人目。初安打は97年6月11日の広島戦で高橋建から。達成に要した試合数、実働年数を見ると、2125試合は8番目に遅く、実働21年目は谷繁(中)25年、田中(日)22年に次ぐ3位タイのスロー記録になった。安打の内訳は単打が1675本もあり、本塁打は33本だけ。2000安打到達時の本数としては、単打が宮本(ヤ)の1646本を上回る最多で、本塁打は同じく宮本の59本を下回り最も少ない。

 荒木は95年ドラフト1位で熊本工からプロ入り。高卒1位選手の達成は立浪(中)、清原(オ)、谷繁(中)に次ぎ4人目。もっとも順調なスタートではなく、入団5年目まではわずか15安打。高卒選手の2000安打到達は25人目になるが、5年目までに100安打未満は荒木だけだ。また、ドラフトでは福留(近鉄1位=現阪神)と原(巨人1位)の外れ1位入団。その福留も日米2122安打を放っている。同一球団の1位指名選手と外れ1位選手がともに名球会入りは、88年野茂(近鉄=日米201勝)、佐々木(大洋=日米381セーブ)に次ぎ2組目となった。

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