野球という仕事 川崎宗則が示す米国帰りの矜持

[ 2017年5月12日 10:00 ]

<ソ・オ8>初回無死、左線に二塁打を放った川崎
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 【君島圭介のスポーツと人間】上半身がねじ切れるほどのスイング。6年ぶりに日本球界復帰したソフトバンク・川崎宗則の空振りに寒気がした。振り始めはコンパクト。だが、インパクトのあたりからバットは急激に加速し、背中に巻き付くように大きく破壊的な軌道を描く。

 ボールが当たれば持ちこたえる下半身も手元に何の感触も残さなければ、左膝から崩れ落ちる。真剣で立ち会い、斬られた武士はかくあるやとさえ見える。「僕はバッティングに詳しくないのでどうして左膝が落ちるのは分からないんですよ」。川崎の左膝には保護のため、バレーボール用の黒いサポーターが巻かれている。

 4月28日の京セラドーム。オリックス戦で川崎は日本での復帰初戦に挑んだ。「What’s up doing?」米国かぶれを気取って笑いを取る愛嬌はダイエー時代の2軍練習場でバットを振り続けていた10代の頃から変わらない。

 憧れのイチローを追うように海外FA権を行使して海を渡った11年オフ。「通用するの?」は素直な周囲の反応だったが、そう思われることも厭(いと)わない心の強さがあった。02年、入団3年目の川崎は当時ダイエーで同僚だった小久保裕紀の奄美大島自主トレに参加を直訴。斉藤和己や現日本ハム2軍打撃コーチの林孝哉らストイックなメンツに交じり、ウエートトレーニングと走り込みが中心のハードな練習をこなし、「一流はこれほどの練習量をこなすのか」と思い知った。ところが翌年、小久保から「おまえに今必要なのはバットを振り込むことだ」と参加を断られた。

 それから何十万スイングしたことだろう。小久保のような天性のスラッガーではない。イチローほどの天才的なコンタクトヒッターでもない。だが、痩せっぽちで野球好きな少年は異国で戦い続けた。手元で動く外国人の球はバットの芯を外し、重くなる。

 「もともと僕はミートバッターですよね。でも米国で変わった。詰まっても前に飛ばすために何だか今のスイングになりました」

 川崎の出身地である鹿児島にあった薩摩藩に伝わる剣術は示現流。その神髄は「一の太刀を疑わず」だという。初太刀に生死をかける一撃の剣だ。一振りに渾身を込める川崎は米国で「チェスト」の精神に達したのかもしれない。

 ただ一対一の立ち会いと戦場の剣が違うように技術は常に進化を求める。川崎は「日本のピッチャーはコントロールもいいし球筋もきれい。変えていかないといけないかもしれない」と認める。

 もうすぐ川崎のバットは次の進化を迎えるだろう。「変えていかないかもしれないけど、せっかくやってきたんで今はこれを楽しみます」。にっこり笑った35歳の顔には、少年のあどけなさがまだ残っていた。 (敬称略、専門委員)

 ◆君島 圭介(きみしま・けいすけ)1968年6月29日、福島県生まれ。東京五輪男子マラソン銅メダリストの円谷幸吉は高校の大先輩。学生時代からスポーツ紙で原稿運びのアルバイトを始め、スポーツ報道との関わりは四半世紀を超える。現在はプロ野球遊軍記者。サッカー、ボクシング、マリンスポーツなど広い取材経験が宝。

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2017年5月12日のニュース