背中は物語る

[ 2017年4月7日 08:10 ]

バルセロナ五輪に日本代表として出場した小久保裕紀氏
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 【我満晴朗のこう見えても新人類】ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)準決勝で惜敗した侍ジャパン。小久保裕紀監督(厳密には「前監督」だけど)の悲しげな、それでいて矜持(きょうじ)あふれる表情がテレビに映し出されると、どことなく既視感がわき上がってきた。

 すぐに思い出した。1992年(平4)のバルセロナ五輪だ。野球がオリンピックの正式競技に採用された最初の大会。公開競技時代の84年ロサンゼルスで優勝し、88年ソウルで銀メダルに終わっていた日本代表の目標はただ一つ、金メダル奪還しかないという、今回のWBCによく似た状況だった。

 予選リーグを5勝2敗の2位で順当に通過し、準決勝の台湾戦へ。ところが郭李建夫を打ち崩せず、2―5で敗れた。山中正竹監督は選手村に戻った後、ユニホーム姿のまま椅子にドサっと腰を落とし、石のように数時間固まっていたという。「あの時の監督の後ろ姿を見て、国を代表して戦うとはこういうことなんだと痛感しました」。昨年12月に東京都内で行われた山中氏殿堂入り祝賀会でこうスピーチした小久保監督は、チームの最年少メンバーだ。

 目標だった金メダルの夢は無情にも絶たれた。緊張の糸がプツリと切れ、なにもかも投げ出す心境になってもおかしくない。事実、帰りのバスでは誰もが押し黙ったままだった。

 だが、オリンピックには3位決定戦がある。しかも翌日に。山中監督は一夜明けたミーティングで「このメンバーで戦えるのはこれが最後だ。最後にこのチームの素晴らしさを見せようじゃないか」と問いかけた。高見泰範捕手、西正文二塁手らベテランも指揮官の静かな激励に応じ「そうだ、自分たちは何のためにここにきたのか、もう一度考えよう」と、選手にゲキを飛ばしたと後に聞いた。

 身も心もボロボロの日の丸代表だが、プライドは決して失っていなかった。翌日の3位決定戦、米国を相手に8―3で快勝。銅メダル死守の立役者となった一人が先制二塁打を含む2打点と活躍した小久保だった。

 当時の米国代表メンバーを振り返ると背筋が寒くなる。ジェイソン・ジアンビ。ノマー・ガルシアパーラ。フィル・ネビン。ジェイソン・バリテック。そんな濃い面々を相手に一歩も引くことなく、堂々たる戦いを演じた日本代表の姿には、今でも身が引き締まる。

 もしWBCに3決があったら、小久保ジャパンは爆勝したのではないかと今更ながら思う。

 前述の祝賀会で25年ぶりに会った小久保監督は鋼鉄の甲冑(かっちゅう)を身にまとっているかのような、ただならない緊張感に包まれていた。あれから約4カ月、大きな戦いが終わって多少はリラックスしていると願っていたら、3月31日には母・利子さんの訃報が飛び込んできた。昨年末から病状が芳しくなかったという。WBC時は尋常ない状態での采配だったわけだ。その精神力には脱帽するしかない。(専門委員)

 ◆我満 晴朗(がまん・はるお)1962年、東京都生まれ。ジョン・ボンジョビと同い年。64年東京五輪は全く記憶にない。スポニチでは運動部などで夏冬の五輪競技を中心に広く浅く取材し、現在は文化社会部でレジャー面などを担当。たまに将棋の王将戦にも出没し「何の専門ですか?」と尋ねられて答えに窮する。愛車はジオス・コンパクトプロとピナレロ・クアトロ。

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2017年4月7日のニュース