どこを見てたんだか

[ 2016年12月29日 07:15 ]

日本ハム・谷元
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 【我満晴朗のこう見えても新人類】日本ハムの日本一に貢献し、晴れて1億円プレーヤーの仲間入りを果たした谷元圭介投手(31)から、宴席でビールを注いでもらったことがある。8年以上前のことだから、本人は絶対に忘れていると思うけども。

 当時、社会人のバイタルネット(新潟市)に所属していた彼は、2007年の日本選手権出場に貢献し、北信越地区連盟の年間最優秀選手に輝いた。その表彰の場で、たまたま隣に座ったのが筆者だった。最初の1杯でのどを潤しながら何げなく故郷を聞くと「三重県鈴鹿市です」という。

 えっスズカ!

 パブロフの犬みたいに反応してしまった。かつてモータースポーツを担当していた身。F1をはじめ、それこそ数え切れないほど訪れたのが鈴鹿サーキットだ。さらに出身高が「稲生(いのう)高」と聞き、テンションは一気にレッドゾーンへ。同校とサーキットは直線距離で1キロと離れていない。最寄り駅は伊勢鉄道の「鈴鹿サーキット稲生」。1987年のF1初開催を記念し、「稲生」から改名したことで超有名だ。

 谷元は1985年生まれだから、ゲルハルト・ベルガーが真っ赤なフェラーリを駆って優勝した87年のF1日本GP時は2歳だったことになる。あの独特の排気音を子守歌代わりにしながら育ったと言っていい。アイルトン・セナとアラン・プロストが最終シケインで接触した衝撃のレースは89年だから4歳か。

 野球とは全く関係のない思いに浸る訳の分からないオッサン記者に対し、MVP投手はにこやかにビールをつぎ足している。あっ。いかんいかん、野球の話をしよう。取って付けたように受賞を祝福し「今後の目標は?」と、単純平凡な質問をぶつけてみた。すると「最終的にはNPB(日本プロ野球)でプレーしたいんです」と真剣な表情で言い切ったではないか。

 正直に告白する。筆者は心の中で「それは難しくないか?」と突っ込んでいた。なにしろ彼の身長は1メートル67。体重は当時60キロ台前半だったと記憶している。試合を取材して写真を撮りながらつくづく感じたのは、まるで中学生のようにきゃしゃな体格だった。確かに140キロ台後半の速球を武器に切れのあるピッチングは魅力にあふれていたが、怪物のごとき天才野球選手が跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)するプロの世界で伍(ご)していくには、あまりにも小柄すぎる。

 筆者の目が完全なる節穴だったことはもはや言うまでもない。2009年のドラフト7位で日本ハムに入団し、貴重な中継ぎとして活躍。クローザーのクリス・マーチンが故障離脱した今秋の日本シリーズでは守護神に指名され、見事胴上げ投手となったのは記憶に新しい。

 48だった背番号も来季から22に昇格。連覇を狙うチームのキーマンと言ってもいい。誰かさんの勝手な見立てをぶっ壊すほどの大出世じゃないか。次に宴席で会ったら、こちらからビールを注がなきゃ。(専門委員)

 ◆我満 晴朗(がまん・はるお)1962年、東京都生まれ。ジョン・ボンジョビと同い年。64年東京五輪は全く記憶にない。スポニチでは運動部などで夏冬の五輪競技を中心に広く浅く取材し、現在は文化社会部でレジャー面などを担当。たまに将棋の王将戦にも出没し「何の専門ですか?」と尋ねられて答えに窮する。愛車はジオス・コンパクトプロとピナレロ・クアトロ。

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