プロ野球を支え続けた父子

[ 2016年12月18日 09:52 ]

四十九日法要後の会食では、小島昭男さんの位牌に好きだったビールが供えられた。遺影は1972年1月2日、父親譲りの紋付きで出勤したスタジオでの写真。
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 【内田雅也の広角追球】澄みわたる青空に浮かんだ雲が笑っていた。旅立った故人の表情ではなかったか。その日の京都は穏やかだった。

 12月11日、建仁寺で小島昭男さん(10月26日、90歳で他界)の四十九日法要、納骨があった。お斎(とぎ)の席では位牌(いはい)と遺影にビールが供えられた。

 「ビールこそ人生なり」と話していた。「死ぬまでビールを友とし、マイクロホンなしでカンツォーネを歌うことが夢だ」。2003年から大阪・梅田新道のビアホールで毎月、講演や音楽会を開き、自らも歌声を響かせた。放送局OBらでつくる関西民放クラブの有志が中心となった月例会である。法要には同会メンバーも列席した。病床を訪ねると「ビールはないのか」とせがまれたと話していた。「本当にビール命の兄でした。今日は愉快にやってください」と妹・のぶ江さん(85)が笑っていた。

 1951年(昭和26)8月、「ラジオの仕事がしたい」と、父の勧めもあり開局前の朝日放送(ABC)に入社。「翌日、甲子園球場に行くと詰め襟学生服のアナウンサーの卵が8人いた。後のエースになる村上守、中村鋭一、西村一男ら1期生は皆、野球中継の練習をさせられていた」。野球記者から「スズメの学校みたいだな」と冷やかされた。

 野球中継の草分け的存在だった。52年から始めたラジオのプロ野球中継では専属解説者第1号として朝日新聞運動部長だった芥田武夫氏(後の近鉄監督)を起用した。解説者には小西得郎氏もいた。55年からのNHK野球解説で「何と申しましょうかあ」の口癖が流行語となった。「あの名セリフも最初は村上アナウンサーとの対話から出てきたもの」。先駆者としての自負があった。

 昭男さんとの出会いは2011年1月。前年暮れ、阪神ゆかりの地を訪ねる連載『猛虎の地』(大阪本社発行版紙面)について「実に懐かしい」と封書で感想をいただいた。同年、甲子園歴史館に父・小島善平氏(1903−57年)の日記など資料を寄贈したと聞き、取材に出向いた。

 善平氏は1936年(昭和11)2月、今のプロ野球につながる日本職業野球連盟の発足と同時に関西支部長に就いた。戦前戦後と裏方としてプロ野球を支え続けた。

 寄贈品は1940−44年の「日記」、45年の「召集令日記」、従軍後の「部隊ノート」、雑記の「破壊録」。さらに昭男さんの元には手紙類が残されていた。関西で開催された全試合の入場者数、球場使用料にボールの個数も記録されていた。戦前戦中のプロ野球の実情を知る第一級の資料だった。取材を進め、「日米開戦70年特別企画」として紙面化した。

 45年4月の出征前、ボールやバットなど野球用具を阪急マネジャー・益田秀高氏と奈良県御所町(現御所市)で軍需工場を開いていた橋本三郎氏(後のコミッショナー参与)に託した。道具はそれぞれ西宮球場スタンド下の倉庫、工場内倉庫に隠され、保管された。

 この道具が終戦後、プロ野球復活を告げる11月の東西対抗(神宮など)で使われた。後にセ・リーグ会長となる連盟幹部の鈴木龍二氏は「試合をやろうにも東京には何もない」。連絡を受けた善平氏は闇列車で大阪から運んだ。後に「命のボール」と書き残した。

 終戦当時12歳だった昭男さんは「父は覚悟と決意をもってプロ野球を守っていた」とその姿をみていた。プロ野球を支える姿勢は昭男さんにも引き継がれていた。

 昭男さん法要の翌12日は善平氏の命日だった。のぶ江さんは「今ごろは向こうで一緒に、何してますかねえ」と、天国での父子再会に思いをはせた。(編集委員)

 ◆内田 雅也(うちた・まさや) 1963年2月、和歌山市生まれ。小学校卒業文集『21世紀のぼくたち』で「野球の記者をしている」と書いた。桐蔭高(旧制和歌山中)時代は怪腕。慶大卒。85年入社以来、野球担当一筋。大阪紙面のコラム『内田雅也の追球』は10年目を終えた。昨年12月、高校野球100年を記念した第1回大会再現で念願の甲子園登板を果たした。

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