阪神・青柳の“原点”上手投げが下手だった 自然と横手に

[ 2016年12月13日 06:55 ]

阪神の青柳
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 野球人生を振り返る上で欠かせない思い出の場所、恩師、記憶に残る1球とは―。猛虎戦士の1人1人にも、大事な物語がある。本紙記者が選手にゆかりの土地を訪ねる企画『猛虎の故郷(さと)』が、13日からスタートする。1回目は青柳晃洋投手(23)だ。独特な下手投げを武器に、今季4勝を挙げた新人右腕の“原点”を求め、高校時代まで過ごした神奈川県川崎市などを訪ねた。

 青柳が生まれ育った神奈川県川崎市は、東京駅から電車で20分の好アクセスに位置する政令指定都市だ。人口は約150万人。東京と横浜に挟まれ、昭和時代は京浜工業地帯の一角を担い工業都市として発展した歴史を持つ。

 そして今回訪ねたゆかりの場所は、隣の横浜市鶴見区。JR鶴見駅から徒歩10分で、マンションが建ち並ぶ住宅街にグラウンドが現れた。名称は佃野(つくの)公園。子どもたちが遊ぶ遊具エリアとはフェンスで隔離され、プレーするには十分な広さが確保されていた。外野フェンス越しには鶴見川が流れ、毎年8月には地元の花火大会の観覧スポットになる。ここで青柳は大きな分岐点を経て、自分だけの武器を身につけた。寺尾東小5年生時で入団した「寺尾ドルフィンズ」での平岡昭彦コーチ(56)との出会いだ。生麦中時代を含め5年間指導した恩師が、感慨深い表情でグラウンドに目を向けた。

 「横から投げていたのは、チームに入ってきて最初にキャッチボールをやらせた時からでした。何気なく1、2球見てみて、『えっ』って思ったのを覚えていますね」

 最初の1球が、運命を決めたのかもしれない。誰に教えられたわけでもなく、自然とスリークオーター気味に白球を投じていた。平岡コーチも何度かフォーム矯正を試みたが、スムーズに投げられない。そこで勧めたのがアンダースロー気味の下手投げだった。

 「下で投げさせてみた時に、ビックリするぐらいにすごく見栄えが良かったんです。本人も『こっちの方がしっくり来る』とね。肩や肘に負担が大きいわけでもないし、自分に合う投げ方が1番良い。だから、そのまま下手投げで指導しようと決めました」

 青柳自身も転向時のことを鮮明に覚えている。

 「自分では普通に上から投げているつもりでしたけど、周りからは『それ横投げだぞ』と言われ続けて。あのタイミングで下手投げを教えてもらわなかったら、今はなかったですね」

 スタミナ面と下半身強化の目的で課された1日平均2時間のランニングにも、嫌な顔は少しも見せず黙々と走り込んだ。「必死に取り組んでいれば、周りも認めてくれる。そういう選手が投手を任されて、仮に打たれても誰も文句は言わない。“そういう人間を目指せ”としつこく言っていましたね」。恩師との約束を、12歳の青柳少年は最後まで破らなかった。

 平岡コーチにとっても横手投げ投手の指導は初めての経験だった。「独特なフォームだし、体の連動の仕方も違う」。同じ投手と言えど、上手と横手では下半身の使い方もまるで違う。野球関連の書籍、指導教本などを読みあさった。「彼はこのままモノになれば絶対プロの世界にいけるぐらいになる」。無限の可能性を確信し、指導に誠心誠意を尽くした。

 青柳も感謝の気持ちを忘れたことはない。「本当にこれ以上ないぐらいお世話になりまくっているので。少しずつ恩返しできればと思います」。昨年10月のドラフト指名後には、真っ先に平岡コーチの下へ携帯電話を鳴らし、互いに涙で声を詰まらせたという。

 「最初はチーム内でも投手をしたい子はたくさんいた。花形ですし。でも青柳の投球を見てからは、誰も投手をしたいと言わなくなりましたね。練習でも誰よりも走る。そういう姿勢でチームの中心になっていた。これからも変わらずに、誰よりも走れと言いたい」

 異色の存在から、唯一無二の存在へ―。今も大勢の子供たちでにぎわう公園で、変則右腕の礎は築かれた。(久林 幸平)

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