【決断】DeNA柳田 初めて見つけた居場所 球団職員で恩返しを

[ 2016年12月10日 11:04 ]

決断2016ユニホームを脱いだ男たち=DeNA・柳田殖生内野手(34)

挫折を乗り越え、必要とされる喜びを知った柳田
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 決断するまでに、時間はかからなかった。10月2日。横浜市内のDeNA球団事務所で人生2度目の戦力外通告を受けた柳田は、帰宅する道中で11年のプロ野球人生を終えることを決めた。

 「長くやっていれば自分の立場も分かる。中日から来た“外様”の自分に、もし仕事を頂けてくれて、必要としてもらえるなら、受けようと決めていた」。今季は3位躍進のチームにあって出場23試合どまり。覚悟して着いた席で、ユニホームを脱いだ後も球団職員として残るよう打診された。断る理由はなかった。

 挫折の連続といえる選手生活だった。福知山商(京都、現福知山成美)を卒業し、進路に選んだのは社会人野球のデュプロ。だが、大卒選手中心のチームになじめなかった。19歳で会社を辞め、そして野球も辞めた。

 「野球どころか運動もしなかった。茶髪でニッカーボッカーをはいて瓦屋で仕事をしていた」

 1年半がたった頃、高校の田所孝二監督と、交際を始めたばかりだった妻・江利さんがグラウンドに戻る道を照らしてくれた。2人がかりの説得を受け、田所監督には野茂英雄氏(当時ドジャース)が立ち上げたクラブチーム・NOMOベースボールクラブを紹介された。「もう一度挑戦しようと思えたのは田所先生と嫁さんのおかげ」。チーム1期生として03年からプレー。午前8時から午後5時まで建築関係の現場で働き、午後6時から深夜0時まで練習というハードな生活を送った。

 05年ドラフトで念願のプロ入り。そこでも挫折を味わった。当時の中日内野陣には荒木と井端という高い壁があった。13年オフに戦力外を通告され、複数球団のオファーの中から「一番最初に声を掛けてくれた」というDeNAに移籍した。

 在籍3年。野球に実直に取り組む姿勢は周囲の選手も一目置くほどだった。挫折を乗り越えてきた男は、必要とされる喜びを知る。「DeNAに拾ってもらって、恩返しをしようと思ってプレーをしてきた。初めて自分の居場所を見つけられた。今度は職員としてDeNAに恩返しがしたい」。来季は編成業務に就く。顔はやる気に満ちあふれていた。 (中村 文香)

 ◆柳田 殖生(やなぎだ・しげお)1982年(昭57)3月31日、兵庫県生まれの34歳。福知山商(現福知山成美)―デュプロ―NOMOベースボールクラブを経て、05年の大学生・社会人ドラフト5巡目で中日入団。07年6月に代走として1軍初出場。内野全ポジションをこなし、DeNAに移籍した14年に自己最多74試合に出場した。1メートル80、85キロ。右投げ右打ち。

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