番長三浦「ずっと横浜」自己ワースト10失点も生きざま詰まった119球

[ 2016年9月30日 05:30 ]

<D・ヤ>試合後、胴上げされるDeNA・三浦

セ・リーグ DeNA6―11ヤクルト

(9月29日 横浜)
 DeNA・三浦大輔投手(42)が不屈の番長魂を見せつけ、涙とともに横浜一筋25年間の現役生活に幕を閉じた。29日、引退試合としてチーム今季最終戦のヤクルト戦に先発。通算535試合目で自己ワーストを更新する10失点を喫しながら、119球、7回1死まで投げた。今季3戦3敗、プロ野球新記録の24年連続勝利は逃したが、まさに完全燃焼。打たれても打たれても立ち上がった「永遠番長」は、ナインの手で背番号と同じ18度胴上げされた。

 カクテル光線が優しく三浦を包む。涙で言葉に詰まるたび、ファンの声援が後押しした。25年間守った横浜スタジアムのマウンドで、ハマの番長は感謝の思いを紡いだ。

 「いろいろ考えてきたんですけど、頭の中が真っ白です。できることなら、このまま時間が止まってくれればなと思っています。横浜一筋で25年やってこられたのは、皆さんのおかげです。現役を引退しますけども、これからも三浦大輔はずっと横浜です。ヨロシク!」

 同僚だけではない。ヤクルトナインも引退セレモニーを最後までベンチ前で、見てくれた。横浜だけでなく、プロ野球に愛された男の証だ。場内一周。「辞めないで」と涙を流すファンに、涙をこらえながら「ありがとう」と言い続けた。

 チーム全員が背番号「18」をつけた。試合前にはスタンド3カ所に「18」が浮かび上がった。全てが三浦のための試合だった。6回までに10失点。「正直、これ以上は見せられないという思いもあった」。116球を投じた右腕は、帽子を取ってファンに一礼してマウンドを降りた。だが、まだ終わらない。涙を浮かべながら、その裏の打席に立った。7回も、マウンドに上がった。ラミレス監督の計らいだった。

 かすむ視界で雄平に残る力を振り絞って3球直球勝負。最後は137キロで空振り三振に斬った。ここで交代――。「みんなが打って守ってくれたのに、踏ん張り切れず申し訳ない」。24年連続勝利は逃したが、勝敗を決するまで投げ続けた。見る者の心に刻まれた。

 「右の肘は曲がらないし、伸びないんよ」。“ネズミ”と言われる遊離軟骨が肥大し、右肘にたまっている状態で、ワイシャツのボタンも右手では留められなくなった。毎日更新されているブログの写真を自撮りするのは必ず利き手ではない左手。右下隅に常に自分が写る「番長フレーム」はここから生まれた。

 プロ生活の中で悩まされてきたのが、肝機能障害だった。今春キャンプ。夜に突然、背中の痛みに襲われた。一睡もできずに早朝に病院へ。それでも、投手コーチ兼任の42歳は午後にグラウンドに来た。「何ともない。疲れがたまっただけ」。周囲に悟られないよう、自らのメニューをこなした。「下手くそは練習するしかない。やったって勝てる保証はない。でも、やったからこそ勝てる権利がある」。ドラフト6位からエースにのし上がった男の支えは、誰よりも真摯(しんし)に取り組んだ練習だった。

 涙、涙の一日だった。三浦はグラウンドを去り、真っ暗になった場内でバックスクリーンに番長が再び顔をのぞかせた。「またいつか、この横浜スタジアムでお会いしましょう!」。最後の最後は笑顔だった。 (中村 文香)

 ◆三浦 大輔(みうら・だいすけ)1973年(昭48)12月25日、奈良県生まれの42歳。高田商から91年ドラフト6位で大洋(現DeNA)入り。98年に12勝を挙げ、日本一に貢献した。04年にはアテネ五輪出場。05年には最優秀防御率と最多奪三振のタイトルに輝いた。14年から投手コーチ兼任。1メートル83、88キロ。右投げ右打ち。

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