25年前の日本シリーズ最終戦を支配したソフトB指揮官、苦闘抜け出せば…

[ 2016年9月16日 11:20 ]

<1991年日本シリーズ 西・広>第7戦で最後の打者の広島・野村を三振に斬って取り日本一を決めた西武・工藤(中央)はマウンドに走って来た伊東と歓喜の抱擁

 先週は広島25年ぶりのリーグ制覇に日本中が沸いた。四半世紀前の1991年の日本シリーズは鮮明に覚えている。3勝3敗でもつれた第7戦。高校2年生の私は都内のホテルの一室で数人の友達と観戦した。決戦を見たかったわけではない。修学旅行の集合時間を守らずに「外出禁止」を命じられ、仕方なく、テレビをつけていたのだ。

 特にどちらのファンだということもない。最初は自由時間を召し上げた担任への愚痴をこぼし、眺めていただけだった。だが、試合が動いた5回から少しずつ、白熱した展開に引き寄せられる。広島1点リードの5回、西武は第5戦に先発した工藤を中3日で投入。5回を3者凡退に抑えるとその裏に逆転し、逃げ切る。工藤は9回までの5イニングを無失点で投げきり、胴上げ投手になった。

 25年後のいま、ソフトバンク担当をしている。「昔は“3日も空ければ大丈夫だろう”って言う人も多かったよ(笑い)」と当時を振り返るのはあの時、マウンドを支配していた工藤監督。シーズンは中5、6日の間隔で投げていたが、シリーズでは何本もの点滴を打ち、回復を早めていたとの苦労話も笑いながら振り返った。6月に優勝マジックが点灯する可能性もあった独走劇が一転、日本ハムの猛追で優勝の行方は分からない。取材する側も「91年以来の工藤対広島」「カープ男子・柳田」「内川対鈴木の師弟対決」など先の企画に思いを巡らせた。正直、これほどの苦労が待とうとは思わなかった。

 ただ、ものは考えようだ。北海道、東京など巡った修学旅行では北海道ラーメンや東京ディズニーランドという楽しんだ記憶は消え去った。いまも旧友とする修学旅行の話題はあの悶々としたホテルの一室での出来事だ。苦しすぎるマッチレースを抜け出し、日本シリーズへと進めれば、きっと笑って振り返ることのできる思い出になる。(記者コラム・福浦 健太郎)

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2016年9月16日のニュース