【内田雅也の追球】再起への「あきらめ」今こそ虎の敗因を明らかにせよ

[ 2016年9月12日 08:30 ]

<ヤ・神>6回1死満塁、狩野の2球目のストライク判定にベンチから身を乗り出す金本監督

セ・リーグ 阪神5-0ヤクルト

(9月11日 神宮)
 昼間はツクツクボウシの声が聞こえた神宮も、夜になるとコオロギが鳴いていた。特に球場外にある喫煙所はまさに虫時雨で、よく聞こえた。

 東京はセ・リーグの優勝決定を待っていたかのように涼しくなった。優勝が決まった後の公式戦には独特の空気が漂う。当たり前だが、もう他のチームには優勝の可能性はない。あきらめなくてはならない。

 <あきらめるとは「明らかに見る」こと>と禅僧・南直哉(じきさい)が『なぜこんなに生きにくいのか』(新潮文庫)で書いている。「あきらめる」は元は仏教用語で「明(あき)らめる」と書き、「明らかに見る」「明らかにする」との意味だったそうだ。

 そして<目標を追求することも大事ですが、ある時点で「断念する」ことを知らないといけない>と説いている。目標や願望が達成されない時、その理由が明らかとなり、納得したうえで断念する。そうして真理に近づくというわけだ。

 ある阪神球団首脳が話していた。「広島とのゲーム差は26・5(10日現在)。どこがどれぐらい劣っているのか。彼我の差を、ぼんやりではなく、具体的に示す分析を行わないといけない」。これは、まさに「あきらめる」作業である。

 あきらめてこそ、見える世界がある。それが再スタートにつながる。

 試合は久々の快勝だった。完封の先発・岩貞祐太で際だっていたのは、前夜3本塁打を浴びた山田哲人への投球である。特に随所で見せた内角速球に闘志が見えた。2回裏の打席で死球を与えたが、ひるまなかった。

 鳥谷敬は先制打に本塁打も見事だったが、三塁守備にはつらつさが表れていた。

 あきらめる作業、つまり敗因を明らかにしていく作業は苦痛を伴うだろう。フロントも監督も自分たちの失敗を見つめ直さねばならないからだ。

 さらに「なぜ打てなかったのか」「なぜミスをするのか」から「なぜ負けたのか」「どうすれば勝てるのか」……といった根源的な問題に明確な答えなどない。

 先の南が説いている。そもそも「なぜ生きるのか?」といった大きな「問い」に答えはない。ただし、問うことはできる。この「問い」を共有することが大切なのだ。

 球団も現場も「問い」を共有したい。痛みを分かち合い、問い続けることである。 =敬称略=(スポニチ編集委員)

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2016年9月12日のニュース