【内田雅也の追球】阪神・藤浪 リズム崩した間合い 失敗許せる心の余裕を

[ 2016年8月12日 08:25 ]

<広・神>7回、藤浪は守備の乱れで逆転を許し肩を落とす

セ・リーグ 阪神3―5広島

(8月11日 マツダ)
 32年も野球記者をしていると、試合の流れからある種の予感を抱くことがある。デジャブ(既視感)のような感覚だ。

 ソロ本塁打の1点に抑えていた阪神・藤浪晋太郎には「このまますんなりいくだろうか」との不安、嫌な予感があった。

 それは6回裏の投球で強くなる。2四球で招いたピンチを切り抜けるのだが、20分間ほど守り続けた。捕手のサインに首を振り、投げた後は首をかしげる。返球を受け、帽子を脱いで汗をふき、プレートを外して息を吐く。セットに入り、逆回りで二塁へけん制偽投する。再びプレートを踏み、サインをのぞく。

 「長い」と近くにいた評論家が口にした。「これだけ間合いが長いと守っている者は大変だ。リズムも何もあったものではない」。確かに、このリズムでは投球も守備も崩れてしまう。

 予感は的中した。7回裏、連打、送りバントに藤浪自ら処理を慌てて悪送球して失点。一ゴロを処理したマウロ・ゴメスも焦って本塁悪送球、逆転を許した。

 論評する値打ちもない凡ミスである。ただし、その要因には投球リズムの悪さもあろう。前夜も書いたが、投手―野手の心のつながりが乱れる。7回裏の4失点は2失策が絡み、すべて自責点ではないが、責任は投手にもあると考えたい。リーグ最多だった非自責点は47にまで増えた。

 真面目で責任感が強い藤浪である。長い間合いは考えているからだ。根底には「まだまだ」と自らに厳しい、完璧主義者の側面が見える。向上心は結構だが、失敗も許せる心の余裕がほしい。

 『徒然草』に「花は盛りに、月は隈(くま)なきをのみ、見るものかは」とある。桜は満開ばかり、月は満月ばかりを見るものか。いやそうではない。散り始めも、雲に隠れた月も、それぞれに美しい。

 思想家、柳(やなぎ)宗悦(むねよし)は『民藝(みんげい)四十年』で<不完全を厭(いと)う美しさよりも、不完全をも容(い)れる美しさの方が深い>と書いた。

 不完全の美という。完璧に整ったもの以上に、どこか欠けたものにこそ美しさを感じる。

 野球も同じである。「野球の美しさは、その不完全性にある」と元ナ・リーグ会長、レオナード・コールマンの語録にある。人間的なのだ。

 フォームも球威も制球も……失敗を認めない、と張り詰めていると、いずれ破綻する。不完全こそ、しなやかで、そして強い。 =敬称略=
 (スポニチ本紙編集委員)

続きを表示

2016年8月12日のニュース