由規 モデルチェンジして変化球6割「理想は球数を少なく…」

[ 2016年7月25日 05:38 ]

<中・ヤ>ヒーローインタビューで目を潤ませ、つば九郎にタオルでぬぐわれる由規

セ・リーグ ヤクルト5―2中日

(7月24日 ナゴヤD)
 5年分の涙だ。ヤクルトの由規投手(26)が24日、中日戦に先発し、5回1/3を4安打2失点に抑え、今季初勝利を挙げた。度重なる右肩の故障を乗り越えて、復帰2戦目で2011年9月3日巨人戦(神宮)以来、1786日ぶりの白星。かつて日本人投手最速の161キロを誇った剛速球は見せられなくても、変化球を駆使して勝つ投球に徹した。復活勝利を挙げた26歳右腕は泣いた。

 こらえきれない。敵地ナゴヤドームでのヒーローインタビュー。声援を浴びた由規は「感極まりました」と目を潤ませた。スタンドから「泣き虫!頑張れよ!」という声も飛んだ。ウイニングボールを渡すために両親と対面すると、あふれる涙が止まらなかった。

 「ここ5年間は家族にいい思いをさせてあげられなかった。やっと勝ったところを見せられてよかった」

 復帰戦となった前回9日の同じ中日戦(神宮)では6回途中6失点で敗戦投手。「神宮のマウンドに戻ってこられたことがうれしい」と振り返ったが、チームを勝利に導けなかった悔しさも残った。故郷の仙台から応援に駆けつけた家族と食事後に帰宅すると午前4時ごろからビデオで試合の投球を見返した。「体の開きが早い。投げ急いでいる」。勝つために修正点を必死に探した。

 10年に当時日本人最速の161キロを計測した面影はない。直球の最速は146キロ。98球中、変化球が64球と6割以上も占めた。「5年前みたいに力で押す投球はできない。(球速に)意識はない。理想は球数を少なくして打ち取ること」。モデルチェンジした。直球を見せ球にスライダー、カーブ、フォークを駆使した。5回2死一、二塁のピンチでは4番ビシエドをスライダーで遊ゴロ。5回1/3を2失点で高校時代に自身と同じように甲子園を沸かせた中日のドラフト1位左腕・小笠原との「背番号11対決」を制し、1786日ぶりの復活勝利をつかんだ。

 止まっていた針がようやく動いた。右肩痛に見舞われたのは東日本大震災が起きた11年。宮城県仙台市出身の由規はこう言った。「震災から5年がたって僕自身もケガして5年がたつ。何かしらで重ね合わせることがあって投げられなかったのが心残りだった」。葛藤を胸に秘め、故郷に明るいニュースを届けた。

 振り返れば、仙台育英時代は体力不足で入学直後のトレーニングを早々に離脱。悔しさをバネに、エースに成長した。今回は右肩痛に苦しんだ5年間で、制球を乱す要因だったクロスステップの矯正に着手した。投球のバランスを崩して元に戻したり、投げる腕の位置も試行錯誤を繰り返した。そして今季、育成選手からはい上がった。

 「こうして勝つことをモチベーションにやってきた。一生懸命投げている姿を見て何かを感じていただければうれしい。2勝目を目指して頑張りたい」。25日に出場選手登録を抹消され右肩の回復具合で次回登板が決まる。チームを3連勝で4位に浮上させた由規が上位浮上への不可欠な戦力になる。(平尾 類)

 ▼ヤクルト・真中監督(由規は)粘って投げていた。球も内容的にも(前回より)全然いい。

 ▼ヤクルト・高津投手コーチ(由規は)試合をつくれている。ここでこの打者にというところで抑えられていた。

 ▼日本ハム・中田(07年ドラフトで由規、ロッテ・唐川とともに“高校生BIG3”と呼ばれた)本人が一番苦労してここまではい上がってきたと思う。自分の場合はあいつら(由規、唐川)の背中を追いかけてきた。また1軍の舞台でお互いに頑張りたい。

 ≪由規と涙≫

 ☆07年8月15日 仙台育英3年夏の甲子園、智弁学園(奈良)に敗れ2回戦敗退。「高校野球は一生の宝」と号泣。

 ☆同年10月3日 高校生ドラフト1巡目でヤクルトに指名され「ここまで来たのは両親のおかげ」と大粒の涙。

 ☆08年1月8日 入寮の際、家族4人との別れに目を潤ませたが、「これからは自立しないと」と決意。

 ☆同年9月6日 巨人戦(神宮)でプロ初勝利。お立ち台で「たくさんの人に応援され本当に感謝しています」と震える声で話した。

 ☆16年7月9日 中日戦(神宮)で1771日ぶりの1軍登板。5回0/3を10安打6失点で黒星を喫したが「ウルッときて。投げられる喜びをかみしめた」。

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