成功例少ない留学生選手 狭き門をくぐり抜けた陽岱鋼の強さとは

[ 2016年7月4日 10:00 ]

日本ハムの陽

 腰の張りのため欠場した中田翔に代わり、6月28日の試合で4番を任され、先制タイムリーを放った陽岱鋼(日本ハム)。リーグトップのチーム打率.270を記録しているチームには好調な選手が多く、様々な選択肢が栗山監督にあった。この状況下において、4番に指名された陽には大きな信頼が置かれているのだろう。

 そんな陽が日本にやってきたのは2003年だった。その頃を振り返りながら、海外留学で日本の高校野球を経験した異邦選手たちを振り返ってみたい。

◎険しく、狭き門の「留学生プロ野球選手」

 祖国を代表して高いレベルの野球を経験したい。衛星中継で見た日本の高校野球と「甲子園」にあこがれて来日。理由はそれぞれだが、全国各地で海外から留学する高校生は増加傾向にあるという。

 ただ、活躍できるか、というとまた別問題だ。甲子園で活躍した選手というと、2002年夏の本塁打が印象深い瀬間仲ノルベルト(日章学園高出身/元中日)くらい。大学から来日した仲尾次オスカル(広島)などを含めても、現役プロ野球選手は数えるほど。

 そんな中、唯一の例外、ともいえる活躍ぶりを見せているのが陽岱鋼だ。その違いはいったい、どこにあるのだろうか?

◎運も家族も味方した陽岱鋼の挑戦

 親戚には台湾プロ野球で活躍した選手も多く、兄・陽耀勲も元ソフトバンクの選手という、まさに野球一家で育った。自身も小学校時代から台湾代表としてプレーするなど、陽一族として恥じない幼少時代を過ごした。

 そんな陽岱鋼が中学卒業後に選んだ進路は福岡第一高への野球留学だった。甲子園出場は叶わなかったものの、1年夏の福岡大会で3試合連続本塁打を放ち、すごい選手だという噂は瞬く間に広がり、評判になった。その高い身体能力が評価され、2005年秋の高校生ドラフトでソフトバンクと日本ハムが1位指名で競合。紆余曲折あったクジ引きの結果、日本ハムに入団した。

 この指名には、大きな「運」も働いていた。実は2004年まで、外国籍留学生がドラフトで指名されるためには、「日本移住期間5年以上」がひとつの条件だった。ところが、陽岱鋼が高校3年になった2005年から、「日本移住期間3年以上」に短縮されたのだ。このルール変更があったからこそ、陽岱鋼は高校から即プロ入りを果たすことができたのだ。

◎進化のために変化を恐れない

 陽岱鋼がプロで活躍できた、大きなきっかけは外野手へのコンバートであるのは間違いない。もちろん陽にはショートへのこだわりがあったものの、試合に出るために、一人前の選手になるために、変化を恐れず、コンバートを受け入れた。

 また、この2009年から本名を「陽仲壽」から「陽岱鋼」に改名。「岱」とは虎が山に入る、とう意味。「鋼」は金や強さを表す文字だ。

「虎となって天下を取る」──そんな決意表明の表れだったといえる。

 レギュラー定着後も変化を恐れない生き様はそのままだ。中島裕之、糸井嘉男(ともにオリックス)、内川聖一、松田宣浩(ともにソフトバンク)、角中勝也(ロッテ)、山崎武司(元楽天ほか)など、リーグを代表する選手たちのバッティングフォームを研究し、いいところはどんどん取り入れ、わからないところは他チームであっても大先輩であっても積極的にアドバイスを求めて回った。

 結果、本塁打は2014年に25本塁打、盗塁は毎年2ケタを記録するなど、トリプルスリーに近い男として、リーグを代表する選手になっている。

 文化・風習の違い、言葉の問題、プレースタイル……外国籍留学生が克服すべき壁や課題は、同世代の日本人選手よりも数多い。それでも結果を残すために必要なことは、陽岱鋼が実践してきた「進化を恐れず変化し続けること」なのではないだろうか。もっともそれは、国籍問わず、すべての野球人に共通することなのかもしれない。(『週刊野球太郎』編集部)

続きを表示

2016年7月4日のニュース