イチ打撃の師・新井宏昌氏 仰木監督から「責任を持って、モノにしろ」と

[ 2016年6月17日 06:52 ]

<パドレス・マーリンズ>初回、先頭のイチローは捕前内野安打を放ち塁上で笑顔。日米通算でピート・ローズ氏の4256安打に並んだ

ナ・リーグ マーリンズ3―6パドレス

(6月15日 サンディエゴ)
 打ち立てた金字塔に驚きは特にない。イチローの打撃の師と呼ばれる新井宏昌氏(現野球評論家)はあくまでも通過点ととらえ、独特の言い回しで偉業を祝福した。

 「彼は普通じゃないプレーヤーですから。もちろん、すごいことです。ただ、今は米国で野球をやっているし、米国で評価される3000安打の方が重要ととらえているんじゃないかな」

 出会いは現役引退翌年の1993年。評論家として訪れたグリーンスタジアム神戸(現ほっともっと神戸)だった。印象は全くと言っていいほど残っていない。

 「いい選手だと聞いていたけど、大してピンと来なかった。自分が言うのもなんだけど体は細いし、特別遠くに飛ばす訳でもないし。思い出しても印象がない」

 イメージはオリックス打撃コーチに就任した94年春季キャンプで一変する。「しなやかに低いライナーをボンボン飛ばすようになっていた」。故仰木彬監督から「お前が責任を持って、モノにしろ」と指令を受けたこともあり、そこから二人三脚の日々は始まった。

 指導する際に重点を置いたのは1点だった。

 「独特の打撃フォームだから投手はタイミングを崩そうと思って、あの手、この手で来る。仮に崩されて右足に重心が移ったとしても、そこで踏ん張って振り切ること。当てて終わるのではなく、崩れたところから振り切る。そればかりやっていたから、左より右の太股が太くなったよね」

 キャンプ、オープン戦と練習を繰り返すうち、天性の打撃センスを確信する。その時点でプロ通算36安打の若者に未来を見た。仰木監督とも「向こう10年は外野の1つのポジションは安定する」と確認し合った。

 才能は間違いない。だがスーパースターになるには、知名度も必要だ。そこで1つの仕かけを施した。

 「絶対に3割は打つと思った。3割を打つとなると、新聞の打撃成績に名前が載る。その時に『鈴木(オ)』では、どこの鈴木さんか今ひとつ、分からない。当時はパ・リーグに鈴木姓の打者が多かったから、じゃイチローにしようと。仰木さんも“それで行こう”と言ってくれたからね」

 近鉄・鈴木貴久、西武・鈴木健、日本ハム・鈴木慶裕。居並ぶ強打者に負けない存在感を放つためのアイデアだった。現役時代はいぶし銀の巧打者として2038安打を記録。自分が目立つのは苦手だが、通算300犠打に表れるように、人を目立たせるのは得意だった。指導者の遊び心と同時期に活躍した多くの「鈴木」がいなければ、「イチロー」は誕生していなかった。

 この年、イチローは当時のプロ野球記録となる210安打をマークする。以降の成長曲線は想像をはるかに超えるものだった。渡米後は時間の許す限り、テレビで状態を確認。毎年、オフには神戸で自主トレを行うイチローの顔を見に行き、打撃投手を務めることもあった。常にストイックにトレーニングに取り組む男に生じた変化。それを感じ取ったのは昨年11月のことだった。

 「正直、少し衰えたと思った。スイング、打ち損じの数、ボールの飛距離や当たり。少し、疑問視するものがあった」

 自身は40歳で現役を引退しただけに、年齢による衰えは理解する。だが心配は杞憂(きゆう)に過ぎなかった。引退翌年の93年以来、ユニホームを着ない状態で迎えた今年2月。目の前には別人がいた。

 「メジャーのキャンプに行く前だったけど、全然違った。それはもう素晴らしかった。常に周囲から評価される、準備する力を見た。あと一番、感心するのはバットを変えないこと。見る限り、材質は変えているけど、形や持つ位置は94年からずっと一緒。成績が良くても悪くても、変えたくなるものだけどね」

 イチローに年齢という安い概念は当てはまらない。「雇ってくれる球団があれば、どこまでもやるでしょう。何度も言うけど、普通の打者じゃないんですから。体が動かないと自覚するまでやったらいいし、やれると思いますよ」と笑った。

 イチローは新井氏を「天才」と称するという。1安打を放つために要した練習でのスイング数が驚異的に少ないという観点からである。

 「言うてるだけでしょう。本来はお茶目だし、我々世代から見る“今どきの子”。発言が注目されるようになってからは、誤解を招かないように独特の表現をしているけど、ふざけたり、冗談が好きな子だから」

 イチローと過ごした23年間。振り返った時に出てくる言葉は「感謝」である。

 「コーチ1年目にとんでもない選手に出会ってしまった。一緒に練習するうちに“打つ人はこういう動きをするんだ”と勉強になったね。これを何とか若い人たちに伝えていけたらいいな…と。彼と出会ったことによって、打つことに関して自信を持って発言できるようになった」

 新井氏は「師」と呼ばれることをあまり好まない。ともに考え、練習を重ね、成長を遂げてきた。その思いが強いからであろう。「天才」はこれからも「天才」の躍動する姿に注目を続ける。

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