山本功児さん死去 早すぎる64歳 ロッテ元監督、長嶋巨人第43代4番

[ 2016年4月24日 05:30 ]

03年、小林雅(右)を迎えるロッテの山本功児監督

 巨人、ロッテでプレーし、ロッテ監督も務めた山本功児氏が23日午後1時41分、肝臓がんのために北九州市内の自宅で死去した。64歳だった。山本氏は巨人、ロッテで計13年間プレーし、引退後はコーチ、監督など指導者を歴任。熱血で、かつ人情味のあふれる人柄は誰からも慕われた。昨年の育成ドラフト2位でDeNAに入団した長男・武白志(むさし)内野手(18)のために移住した九州の地で、永い眠りについた。

 さぞや無念だったろう。山本氏は長男・武白志が1軍でプレーする姿を見ることなく、天国へと旅立った。北九州市内の自宅で取材に応じた美砂子夫人は、「昨年8月下旬に入院して、そこから入退院を繰り返していました」と話した。今年3月12日に退院。しかしその際、山本氏は「もう、病院には戻りたくない」と訴えたという。この日の午前中に昏睡(こんすい)状態に。武白志は球団の許可を得て21日に自宅に戻っており、息を引き取った時には父の大きな手を握りしめていた。

 背番号44。忘れがたいバイプレーヤーであり、熱血漢で知られる指導者だった。75年ドラフト5位で篠塚和典(当時は利夫)、中畑清(スポニチ本紙評論家)らと同期で巨人に入団。一塁には王貞治という不動のレギュラーがいる中で、外野手も兼ねながら活躍した。79~80年には第43代4番打者として7試合に出場。ロッテに移籍した84年には、初めて規定打席に到達してリーグ9位の打率・301をマークした。堅実な一塁守備でダイヤモンド(現ゴールデン)グラブ賞を2度受賞。球宴にも82、85年と出場した。

 指導者としてはロッテ監督以外にも打撃コーチ、2軍監督などを歴任。とことん選手に付き合う熱い指導で福浦、サブローらを育て上げた。人情味あふれる真っすぐな人柄で、多くの関係者から慕われた。熱血漢ゆえに指揮官時代は審判に詰め寄ることもたびたびで、オープン戦でも退場処分を受けたほど。ファンはその熱い姿に声援を送った。巨人1年目の76年春季キャンプ。山本氏は当時の長嶋茂雄監督から何度もチャンスをもらい、「どんな選手も体験で強くなる」と痛感したという。自身も2軍から昇格した選手は即起用し、ミスを犯しても必ず次のチャンスを与えた。

 08年には慢性心不全を発症。入退院を繰り返す中で山本氏が選択したのが、神奈川から福岡への「移住」だった。武白志が13年に九州国際大付に進学。しかし寮生活になじめず体重が15キロ近く減った。父は「俺はもう、どこに住んだっていい。息子が困っているんだったら近くに住もう」と夫人とともに福岡に移り住んだ。昨夏も体調が優れない中、甲子園で観戦。武白志が大阪偕星学園戦で2打席連続アーチを放った際には「よう打ったよ。1本目の時は涙が出た」と喜んだ。再入院したのはその直後だった。

 ロッテ監督を務めた5年間は全てBクラス。しかし退団から2年後の05年に、山本氏の指導で成長した選手らの手によってチームは日本一に輝いた。幼少時から父の背中を見て、練習にも付き添ってもらった武白志が、今度は亡くなった山本氏の遺志を継いでいく。

 ◆山本 功児(やまもと・こうじ)1951年(昭26)12月25日、兵庫県生まれ。三田学園では3年センバツ8強。法大、本田技研鈴鹿を経て75年ドラフト5位で巨人入団。控えの一塁手として、1年目から貢献し開幕3戦目の4月6日大洋戦で初出場(代打)。84年ロッテに移ると正一塁手として同年から2年連続ゴールデングラブ賞に輝き88年オフに引退した。翌年からはコーチとなり97、98年は2軍監督、99年からは1軍監督に昇格し、03年まで指揮。古巣の巨人でも04年に2軍、05年に1軍でいずれもヘッド兼打撃コーチを務めた。左投げ左打ち。現役時1メートル86、84キロ。

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