高田高 奥村部長あらためて自らに問う 教師として被災した意味

[ 2016年3月10日 09:00 ]

高田高の新校舎を見学する当時の先生たち

復興へのプレーボール~陸前高田市・高田高校野球部の1年

 2011年に発生した東日本大震災から、あす11日で5年。岩手・高田高校は陸前高田市の新校舎に移転後、初めての節目の日を迎える。震災当時に赴任していた教職員の集い「3・11の会」は今年で3回目となり、38人が出席。当時の思い出を語り合った。幹事を務めた同校野球部の奥村珠久子(しゅくこ)部長(43)は、現在も同校に残る数少ない教職員の一人。日々姿を変える街、年々変わる人の思い。けれど、変わらない事実、忘れてはいけない出来事。5年を経てもなお、震災は人々にさまざまな?藤を残している。

 海岸沿いの防潮堤は12メートルの高さとなり、高台でなければ、もう海を望むことはできない。約300ヘクタールに及ぶかさ上げで、街はほとんど茶色の土に覆われた。「びっくりするくらい変わったでしょ?毎日いる私だって、迷うもの。夜は街灯もないし車で走ってて“あれ、今どこだろう?”って」。奥村部長が苦笑する。「久しぶりに来る人なら、なおさらだろうなあ」

 2014年3月に初めて開催された「3・11の会」は今年、38人が参加した。そのうち、当時から同校に在籍する教職員は奥村部長、伊藤新コーチ(44)を含めて13人。内陸での開催も検討されたが「陸前高田でやらなければ意味がない」との声が続出した。会の前には、同市内にある知人の墓参りに向かう人もいる。

 「あの体験を一緒にしたのですから」。当時の校長、岩手県立図書館・工藤良裕館長(59)が振り返る。校舎は全壊。自宅は流失。何より、街が消えた。まずは「生きること」が最優先だった。同時に学校再開に向け、生徒の安否確認や被災状況の把握など、業務は山積みだった。

 震災から11日後の3月22日、大船渡東の学生会館を借り、臨時の職員室を設けた。大広間での共同生活では、ついたてで男女の寝床を仕切り、朝食は家庭科教諭が用意した。「今思えば合宿みたいだった。これはもう、一生の付き合い。苦楽を共にした同士だから」。前野球部監督で、岩手県高野連・佐々木明志事務局長(52)が懐かしむ。自らも被災しながら、生徒を思い、懸命に模索した。その時間を共有した人々が1年に1度、この街に集う。

 工藤館長と佐々木事務局長は13年4月に他校に異動。内陸での生活に、違和感を覚えることも少なくない。「今は地震があっても、津波の心配はなくなった。同じ岩手県内でもこの感覚は全く違う」(工藤館長)。佐々木事務局長は時折、授業で自身の経験を話した。「でも“伝えることの限界”はあって、最近は自分も内陸の生活に慣れてしまった。本当はそれじゃあ、いけないんだけどね…」。忘れたわけではない、忘れたくもない。時間の経過の残酷さを、痛感することもある。

 一方、現在も同校に残る奥村部長にも、?藤がある。「先生方も代わるし、当時の出来事を知る人が少なくなった。声高に“震災”と口にするのが、果たして良いのか悩む時はあります」。最初の2年間は、生徒を「普通に過ごさせること」が先決だった。できるだけ傷をえぐらず、穏やかな生活を。しかし、今はどうだろう。

 「両親を亡くした子もいるから、生徒たちには“お父さん、お母さん”って言葉は意識的に避けていたんです。“保護者”って言っていたの。最近はつい使っちゃう。後で気付いて、自己嫌悪したりして」。そんな時は、野球部の生徒に力をもらう。「私は技術の指導はできないし、自分の存在意義みたいなものをずっと考えていました。でも、今はこの子たちを純粋に応援したい。一緒に勝って、喜びたい。だから許される限り、高田高校にいたいと思います」(金子 しのぶ)

 ▼復興へのプレーボール~陸前高田市・高田高校野球部の1年 東日本大震災で甚大な被害を受けた同校硬式野球部の姿を通して、被災地の「現在」を伝える連載企画。2011年5月11日に第1回がスタート。12年3月まで月に1回、3日連続で掲載。その後も不定期で継続しており、今回が52回目となった。

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