【レジェンドの決断 金城龍彦1】CS敗退テレビ観戦「戦力になれなかった」

[ 2016年1月12日 10:37 ]

15年11月23日、ファンフェスティバルで胴上げされる金城 

 思ったように体が動かない。故障後の回復も遅くなる。ベテラン選手がユニホームを脱ぐ理由だ。39歳の金城も昨年、「その時」を迎えた。

 「プロはチームの勝利に貢献し、お客さまに凄いプレーを見せるのが仕事。巨人はハイレベルな競争がある。思ったように(故障が)回復せず守れないなら、ユニホームを脱ぐのは当然だと思う」

 2軍で調整中の昨年6月17日。ジャイアンツ球場でのアップ中に右ふくらはぎに痛みが走った。2カ月後に実戦復帰したものの、体の切れは戻らない。自信があった外野守備も頭で描くイメージとプレーのギャップに苦しみ、シートノックでワンバウンドした球が頭上を越える。故障する以前は考えられなかった。

 優勝争いするチームで戦力になれないもどかしさを感じる一方、2軍で黙々と汗を流した。「最後まで戦力として戻りたい。チームが戦っている時に辞めるとか考える姿は見せるべきではないと思っていた。(引退を考えたのは)終わった瞬間かな」。昨年10月17日のヤクルトとのCSファイナルステージ第4戦。CS敗退を自宅のテレビで見届け、今季限りで引退する決意を固めた。翌18日。都内の球団事務所で任意引退を申し入れた。

 近大付ではエース。社会人の住友金属でも4年間投手だったが、98年ドラフト5位で横浜(現DeNA)に入団すると同時に野手に転向した。投手よりも自信があった。「ピッチャーは(アマで)やりきった。毎日、試合に出て自分の力を試したかった」。天才的な打撃センスはプロですぐに開花した。2年目でスイッチヒッターでは歴代最高の打率・346で首位打者を獲得。ボール球でも巧みなバットコントロールでヒットゾーンにはじき返した。「センスの塊」と形容されたが、それだけが全てではない。

 対戦球団のフリー打撃を見ることが日課だった。「横浜にいた時は当時現役だった高橋監督、(阿部)慎之助の打撃を参考にしていた。トップへの入り方、スイングの軌道、打球の質。超一流の選手はいろいろなところに吸収するヒントが隠されている」。投手や自身の状態に合わせ、打席での立ち位置を数センチ単位、バットも10グラム単位で調整。その試行錯誤をプロ17年間の現役生活で繰り返した。ツーシームやカットボールを投げる投手が増えた5年ほど前から足の上げ幅も小さくした。速球系の変化球に対応するためだ。「進化しなければ技術も心も衰退する」。抜群の身体能力を誇るが、誰よりも研究熱心だった。 (平尾 類)

 ◆金城 龍彦(きんじょう・たつひこ)1976年(昭51)7月27日、大阪府生まれの39歳。近大付2年夏にエースとして甲子園に出場。住友金属を経て、98年ドラフト5位で横浜入団。プロ入り後に内野手に転向し、00年に史上初となる首位打者と新人王の同時受賞。01年に外野手に転向し、05、07年にゴールデングラブ賞。06年WBC日本代表。通算成績は1892試合で打率・278、104本塁打、592打点。1メートル77、82キロ。右投げ両打ち。

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