栗原 母のため、故郷東北のため、楽天で「0」からのスタート

[ 2015年12月23日 10:40 ]

7日の入団会見で、楽天のユニホームに身を包む栗原

 16年間プレーした広島を退団し、楽天に入団テストを経て加入した栗原健太内野手(33)が故郷・東北での再起を誓った。今月7日の入団会見後、山形県天童市の実家で母・順子さん(62)に入団を報告。右肘故障の影響で13年5月を最後に1軍出場がない男は、最大の理解者である母のため、東北を盛り上げるためフルスイングに思いを込める。(徳原 麗奈)

 店の片付けをしながら息子の帰りを待ちわびていた順子さんの耳に「ただいま」と聞き慣れた声が響いた。栗原と妻・聖良さん(31)、今年5月に生まれたばかりの三女・心杏(みあん)ちゃんが帰ってきた。あいさつを終えると、宴の始まりだ。順子さんの「健太の楽天入団を祝って乾杯!」という音頭で栗原家に笑顔の花が咲く。店の宴会場で日大山形の同級生らも交え、焼き肉を食べながら栗原の再起を祈った。

 いつだって一番のファンは母だった。順子さんは栗原が中学3年の時に離婚。焼き肉店「マルタイ」を一人で切り盛りしながら弟・泰志さんと2人の息子を女手一つで育て上げた。「カープに入って山形から広島に離れた。1軍でプレーしているところを見せるのが親孝行と思ってずっとやってきた」。栗原は、活躍することが何よりの恩返しと信じてきた。

 99年ドラフト3位で広島に入団。母の前では口べたな栗原にとって1軍で活躍することが、1000キロ以上離れた実家への便りだった。06年から4年連続20本塁打以上をマーク。08年は4番を打ち、打率・332、23本塁打、103打点。球界を代表するスラッガーに成長し、09年には世界一に輝いた第2回WBCの日本代表メンバーにも名を連ねた。だが、13年5月を最後に1軍の舞台から姿を消す。08、12、14年と右肘を3度手術し、2軍暮らしが続いた。

 2年以上も1軍出場がない中、気持ちが腐らなかったのは、順子さんの言葉を胸に刻んでいたからだ。「今している努力は無駄じゃないよ。見てくれている人が絶対にいる」。小学5年の時、少年野球チームで負けが続き「いくら頑張っても勝てない」と珍しく弱音を吐いた。その時に諭された言葉が厳しいプロの世界での支えとなった。

 今年7月、息子を応援するため、順子さんは3日間、店を休み広島へ向かった。「物凄く練習をする子。健太が人一倍頑張っているのは知っているから、“頑張れ”と言えなかった」と振り返る。必死に練習に励む栗原だったが、チーム事情もありファームでも出番は減る一方。このまま終わるわけにはいかない。大きな決断をした。金額にかかわらず、出場機会を求め他球団をあたってみたいと広島に伝え、野球協約の減額制限を超える提示を受けることで自由契約となった。

 11月、岡山・倉敷での楽天の秋季キャンプ。入団テストのフリー打撃で広角に打ち分け柵越えを4本マークし、星野仙一球団副会長から「想像以上だった」と評価を受けた。母の言葉通り、努力を見てくれている人はいた。天童市からコボスタ宮城は車で約1時間の距離。来年7月には山形での試合もあり「店があるから広島だと多くても年3回だったけど、10回以上は見に行けそう」と順子さんは喜んでいる。

 息子は言う。「楽天に入り、母親も応援に来ることが増えると思う。親孝行できる機会が増えた」。09年に最高1億6000万円だった年俸は2000万円に。背番号は「0」に決まった。文字通りゼロからのスタート。東北で輝きを取り戻すという固い決意を胸に、栗原は特別なシーズンへ向かう。

 ◆栗原 健太(くりはら・けんた)1982年(昭57)1月8日、山形県生まれの33歳。日大山形では2年夏に甲子園出場。99年ドラフト3位で広島入団。11年にベストナイン、一塁手として08、09、11年にゴールデングラブ賞を受賞。12年5月の右肘手術後は出場が激減し、今年10月に自由契約となった。通算成績は1026試合で打率.293、153本塁打、586打点。1メートル83、97キロ。右投げ右打ち。

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