高田高で野球教室 センバツV腕が教えてくれた「甲子園のマウンド」

[ 2015年12月16日 08:43 ]

ブルペンで並んで投球練習する(手前から)千田、水野、早大・小島

復興へのプレーボール~陸前高田市・高田高校野球部の1年

 東日本大震災から4年9カ月が経過した。目に見えて進む復興があり、今もなお、深い傷を抱える人もいる。高田高校ナインには震災後に白球を通して始まった交流がある。今年で4年目を迎える早大の現役野球部員による野球教室がこのほど行われ、2013年センバツ優勝投手・小島和哉投手(1年=浦和学院)ら4選手が指導した。今秋岩手県大会16強入りの原動力となった千田雄大投手(2年)、水野夏樹投手(1年)の右腕コンビは、甲子園優勝投手からの金言を胸に刻んだ。

 エースの千田は真っ先に聞いた。

 「甲子園のマウンドって、どんなところですか?」

 12月12日。場所は大船渡市内の萱中グラウンド横にある宿泊施設だった。高田ナインが早大4選手とともにした夕食で、座談会が始まった。

 震災から10カ月後、当時の佐々木明志(あきし)監督(現岩手県高野連事務局長)が早大野球部OBだった縁もあって、現役野球部員同士の交流がスタートした。野球指導という形での支援は今年で4年目。早大18選手が東北地方の5校に分かれ、高いレベルの技術を伝えた。

 13年センバツで優勝投手となった浦和学院出身の小島ら4選手は、東京から夜行バスで約8時間かけて高田高校にやって来た。

 「どんな目的を持ってきょうの練習をやっているのか。そこを考えて」

 「変化球を投げるときは、リリースの直前まで“直球を投げるんだ”という意識で。そうすれば腕の振りは変わらない」

 ブルペン投球の合間に、分かりやすい言葉でアドバイスを送った。

 震災後、東北地方には全国各地から義援金が届き、衣類、食料も集まった。被災地の人たちは支援に感謝し、必死に立ち上がった。あれから4年9カ月。鉄道の復旧や高速道路の開通、住環境の整備も進んだ。だが、何もかもが元通りに戻った人はいない。早大野球部員も、指導の合間に陸前高田市内を巡り、震災遺構として残されている全壊した建物などを目に焼き付けた。

 小島は高校時代に3度、宮城県石巻市でボランティア活動をしたことがあった。「時間がたっても(復興が)全然進んでいないところもある。あらためてそれが分かった。(経験を)伝えるために、来年もまた来たい」と言った。現状を知り、伝える。震災を風化させたくないという思いは変わらない。

 高校生にとって、大学生との触れ合いは貴重な経験になった。千田は「小島さんからは一番大事なのはコントロールだと言われた。自分はフォームが安定していないので、しっかり練習して固めたい。あとは精神面。強い気持ちで投げること」と、助言を胸に刻んだ。本格派の水野も「“キャッチャーミットを通過して、さらに先を目掛けて投げるイメージ”という言葉が印象に残った」と目を輝かせた。投球練習後には人さし指と中指で軽く挟んで投げる、チェンジアップも教えてもらった。

 自身も早大OBの伊藤貴樹監督は、3日間の交流を振り返り「彼らはいろいろな引き出しを持っているし、年も近いので、選手も身近に感じられる。本当に貴重な時間になった」と後輩たちに感謝した。伊藤新(あらた)コーチは「俺らがガミガミ言うより、大学生の言葉は響くんですよ」と、上手な指導に感謝した。

 座談会の冒頭で出た質問に小島はこう答えた。

 「甲子園のマウンドは審判の声が聞こえないくらい、大歓声に包まれた場所だよ」

 千田は、真剣にイメージを膨らませながら「これからは(親身になって指導してくれる)早稲田の思いを背負ってプレーしたい。甲子園に出ることが恩返し」と決意を新たにした。震災でつながった絆がある。お互いに学生は入れ替わっても、野球を通した支援は続く。継続こそが、復興への力となる。(川島 毅洋)

 ▼復興へのプレーボール~陸前高田市・高田高校野球部の1年 東日本大震災で甚大な被害を受けた同校硬式野球部の姿を通して、被災地の「現在」を伝える連載企画。2011年5月11日に第1回がスタート。12年3月まで月に1回、3日連続で掲載。その後も不定期で継続しており、今回が51回目。

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