マエケンがたどった軌跡 PLエース、4年目で沢村賞、ジャパンのエースに

[ 2015年12月12日 09:15 ]

広島がポスティングシステム申請手続きを行った前田健

 12月4日、広島がポスティングシステムを利用した前田健太のメジャー移籍を認めた。かねてより移籍を希望してきた夢がついに叶うことになる。どの球団が入札し、どんな契約にまとまっていくか、これからの動向が非常に気になるところだ。

 若くして広島のエースとなり、今や侍ジャパン投手陣の大黒柱となったマエケン。同学年の田中将大(ヤンキース)に続き、メジャーの舞台で躍動する姿を見たいファンも多いだろう。そんな前田の、ここまで辿ってきた道を改めて振り返ってみよう。

◎“PL学園1年生エース”として甲子園デビュー

 前田健太の名前が初めて野球ファンに知られるようになったのは、2004年夏の甲子園だった。

 名門・PL学園で1年生ながらエース格として登板し、大阪大会を制した。その姿は偉大な先輩の姿と重なり、「桑田二世」と呼ばれる。しかし、甲子園初舞台となったこの時は日大三に敗れ、自らも途中降板する悔しさを味わった。

 その後も前田は、“PLのエース”としてマウンドに立ち続ける。
 2年夏には前年の決勝戦で倒した大阪桐蔭と準々決勝で再戦。試合中に右ヒジに死球を受けるアクシデントの直後に平田良介(現中日)に逆転弾を浴びてしまった。劣勢のなか、9回に自ら本塁打を放つも、2-4で敗れた。

 それでも前田はこの悔しさをバネに、センバツ出場を決め、3年春に再び甲子園に帰ってきた。初戦の真岡工戦では16奪三振で勝利。続く2回戦の愛知啓成戦では完封勝利と、プロのスカウトを釘づけにした。

 さらに準々決勝の秋田商戦では、1失点完投というピッチングに加え、ホームスチールを記録して野球センスの高さを見せつける。準決勝で清峰に敗れたものの、PL学園をベスト4に導く原動力となった。そして、秋の高校生ドラフトでは広島から1位指名を受け、プロ野球の世界に身を投じた。

◎プロ4年目、2010年が飛躍の年に

 プロ1年目は1軍での登板はなく、2軍で体力強化に明け暮れた。そして2年目の2008年、前年引退した佐々岡真司のつけていた背番号18を前田が受け継ぐことになる。球団から大きな期待を受けた前田は、6月18日の日本ハム戦でプロ初白星。その後も白星を重ねていき9勝2敗と結果を残し、多くの広島ファンに「将来のエースは前田」と印象付けた。

 翌2009年は、開幕から先発ローテーション入りを果たし、勝敗こそ8勝14敗と負け越したものの、投球回数は193イニングと、前年を大きく上回り経験を積んだ。

 そして2010年は、前田にとってターニングポイントとなる。プロ入り初の開幕投手に臆することなく勝利すると、前年退団したコルビー・ルイスや、右肩痛で戦線離脱した大竹寛(現巨人)の穴を埋めるべく孤軍奮闘。7月1日の巨人戦は1失点完投勝利で、自身初となる2ケタ勝利(10勝目)に華を添えた。

 オールスターゲームに初出場したのもこの年。終わってみれば15勝8敗、防御率2.21、174奪三振を記録。最多勝、最優秀防御率、最多奪三振と投手三冠を独占したほか、沢村賞も受賞し、一躍セ・リーグを代表するピッチャーへと成長を遂げた。

◎そして侍ジャパンのエースへ

 2012年4月6日のDeNA戦ではノーヒットノーランを達成。シーズンを通して好投を続け、自身キャリアハイとなる防御率1.53をマークした。

 2013年に開催されたWBCでは、メジャーリーガーがいない中、田中将大とともに中心投手と期待されていた。キャンプでは右肩痛と調整遅れで球速が全然戻らず、不安視されていたものの、1次ラウンドの中国戦、2次ラウンドのオランダ戦で勝利投手になり、期待に違わない活躍をみせた。準決勝のプエルトリコ戦では初回に1点を失ったものの、2回以降は無失点と好投。しかし、1-3でチームは敗れ、敗戦投手に。

 それでも前田は力投が認められ、大会ベストナインに選ばれた。シーズンでもその好調さをキープして、15勝7敗、防御率2.10と、2年連続で最優秀防御率を獲得。日本を代表する投手に成長した。

 今年は15勝を挙げ最多勝、沢村賞を受賞。6年連続の2ケタ勝利と、その勢いは留まることを知らない。

 ほぼ決定的になったメジャー移籍により、日本人メジャーリーガーデビューが22年連続に伸びそうだ。マエケンの技術がメジャーリーグでどこまで通用するか、いまから楽しみでならない。(『週刊野球太郎』編集部)

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2015年12月12日のニュース