【関本独占手記】FA宣言からの5年間 常に引退を意識していた

[ 2015年10月5日 11:30 ]

<神・広>引退セレモニーで場内一周する関本

セ・リーグ 阪神0―6広島

(10月4日 甲子園)
 引退を最初に意識したのは2010年オフにフリーエージェント(FA)宣言し球団に3年契約を結んでもらった時でした。球団にリスクを背負ってもらった以上、自分に対してはもの凄いプレッシャーをかけていました。3年間で思うような結果を残すことができなければ、身を引かなければいけない――。翌11年からの5シーズンは常に覚悟をもって、野球をやってきたつもりです。

 小学1年から野球を始めました。親父(=幸雄氏)とのマンツーマントレ。学校から帰ったら、まずピッチングをして、晩ご飯を食べる。そこから5~6キロのジョギングに出かけ、戻ると腹筋と背筋、明かりをつけた軒先でティーバッティングをするのが日課でした。雨が降れば中止になるんですが、親父とのマンツーマントレが続いた中学3年まで雨が降った記憶は一度もない。実際にそんなことはあり得ないんですけど…。

 自分が親の立場になって思うのは「よくぞ、毎日あれだけ練習に付き合ってくれたな」ということ。そういう意味で、親父には感謝の気持ちでいっぱいです。「お疲れさん、長い間、よう頑張ったな」。引退をメールで報告したとき、7歳から野球を始めて初めて親父に褒めてもらいました。

 そんな親父に謝りたいことが一つあります。親父は小、中、高と週末に試合がある時は欠かさず足を運んでくれていました。もちろん、阪神に入ってからも。それがある時、自分の中でしんどくなってしまった。1年目か2年目の時です。

 「もうアマチュアちゃうし、試合は見に来んといてほしい」。1年目から2軍では80試合に出させてもらって試合後は特打、特守の繰り返し。

 もう毎日がヘトヘトでした。そうやって苦しんでいる姿を、親には見せたくない――。当時の自分に、親父の気持ちを考えられる余裕はなかった。でも、繰り返しになりますが、自分も親になったから今は分かるんです。息子のことを見守りたかったやろうし、言われて辛かったやろうなと。だから、この場をお借りして謝らせてください。親父、あの時はごめんなさい!

 入団から5年間の下積み時代が非常に長く感じられました。アマチュア時代は数字のことなど一切気にせずプレーしていたのが、1年目の打率は・162。「これだけ練習しても、2軍でもこの数字しか残せないのか…」。あまりの力のなさに愕然(がくぜん)としたものです。

 2、3年目の頃から「自分がいまどのレベルにあるのか?」ということを常に意識してやっていました。2軍の試合に投げるということは1軍では敗戦処理、あるいは先発5、6番手の投手が調整で投げてくる。そういう投手に対して、自分は何本ヒットを打ったのか。対戦した相手チームの投手が1軍へ上がった時は必ず、その投手の成績をチェックしました。「あの球を投げても1軍では6回4失点か…」。だったら、自分はまだまだバットを振らなければならない。毎日がその繰り返しでした。

 そんな自分がここまでプレーできたのは負けん気と、何よりファンの方々の声援があったからこそです。自分のキャリアでは、1番から9番までの気持ちが分かる(※1)ぐらいしか誇れることはないけれど、熱狂的なファンの方々に支えてもらったことは何よりの誇りでした。ファンのみなさん、本当に、ありがとうございました!(阪神タイガース内野手)

 ※1 2011年9月1日中日戦(ナゴヤドーム)で「4番三塁」で先発し全打順を経験。

 ▽阪神在籍19年 97年入団の関本は藤田平(66~84年)、川藤幸三(68~86年)と並ぶ球団で3番目に長い在籍年数となった。最長は桧山進次郎の22年(92~13年)。遠井吾郎が20年(58~77年)で2位。

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