阪神・中村GM急死…遠征先ホテルで発見 チーム再建見届けぬまま

[ 2015年9月24日 05:30 ]

急死した阪神・中村GM

 阪神ゼネラルマネジャー(GM)の中村勝広(なかむら・かつひろ)氏が23日、急性心不全のため、遠征先の都内ホテルで死去した。66歳だった。この日正午頃に心肺停止状態で発見され通報で駆け付けた消防が死亡を確認。事件性はないという。葬儀・告別式は未定。阪神、オリックスで監督を務め、12年のシーズン途中から阪神GMに就いた。チームは昨季2位から日本シリーズに進出し今季も優勝争いを続けてきた。球団創設80周年の戦いを見届けぬまま、帰らぬ人となった。

 午前11時半前。南信男球団社長が宿舎の1階ロビーに現れた。中村GMとともに共通の知人を見舞う予定だった。だが、約束の時間を10分過ぎても中村GMは姿を見せない。「GMがこんなに時間に遅れることはない。心配や」。携帯電話を鳴らしても出なかった。

 そばにいた記者に「きょうはGMと会っていないか?電話していないか」などと確認した。ホテルのスタッフを伴い、中村GMの部屋へ向かった。マスターキーでドアを開けたが内側からドアチェーンが掛かっており、中に入れない。ロビーに戻り、ホテルの支配人を呼んで足早に再度、中村GMの部屋へ向かった。

 10分後の正午頃。ホテル正面出入り口横の搬入口に救急車が付けられ救急隊員が部屋へ入った。中村GMは発見時、ベッドに仰向けで横たわり、シャツ、ハーフパンツの着衣に乱れはなかった。心肺停止状態で体は冷たく、下半身は死後硬直が始まっていたという。その場で死亡が確認され、検視の結果、事件性なしと判断された。前夜は外食せず、部屋で夕食を終えたもよう。最終生存確認は前日の午後9時頃、部屋に胃腸薬を持っていった球団関係者が接触したのが、最後だった。

 南社長は午後6時すぎ、宿舎で報道陣に対応。経緯説明した上で「大ショックでなかなか言葉が出てこなかった。GMは常々“社長、今年は大チャンスなので優勝を勝ち取ろう”とおっしゃっていた」と言葉を絞り出した。会見に先立ち、チームには巨人に連敗を喫した試合後、宿舎で事情を説明。「全力でいいゲームをして一つでも勝ってほしい。それが供養になると思うから、ということを伝えた」と話した。

 中村GMは90年から6シーズンにわたって指揮を執った。今でも球団史上で最長である。ただし成績は振るわない。92年こそ若手の新庄と亀山を抜てきし、最後まで優勝争いを続けたが2位に終わり、後は全てBクラス。「暗黒時代」と言われた低迷期の監督だった。3年前の12年9月にGM就任。福留、西岡、呉昇桓(オスンファン)、ゴメスらを補強し、掛布DCを招へいするなどチームを強化した。2年連続で2位に入り、昨季は日本シリーズに進出。チームの躍進を陰で支えたが、重圧は計り知れない。低迷すると、批判の矢面に立たされることも少なくなかった。アルコールでストレスを発散する時もあったが、最近は寝付きが悪くなり、睡眠薬を常用。血圧を下げる薬も服用していた。

 前日は東京ドームを訪れ、球場入りの際には「ここがヤマもヤマだな」と意気込んでいた。それが、突然の悲報。志半ばで永遠の眠りについた。

 ◆中村 勝広(なかむら・かつひろ)1949年(昭24)6月6日、千葉県生まれ。成東では甲子園出場なし。早大で主将を務め71年ドラフト2位で阪神入団。主に二塁手として活躍し、オールスター出場3度。82年に現役を引退。通算成績は939試合で打率.246、76本塁打、219打点、74盗塁。83~87年に阪神2軍監督、88年に1軍作戦コーチ、90~95年途中まで監督を務めた。スポニチの評論家を経て03年にオリックスGMに就任。06年には同チームの監督として11年ぶり現場復帰。1年で辞任し、その後は球団本部長などを歴任。12年9月に阪神球団初のGMに就任した。

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